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檜山真有評 BIYONG POINT展覧会 「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」

BIYONG POINTにて開催された岩瀬海、櫻井莉菜、中島伽耶子による展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」。展覧会と共に継続的に行われた対話イベントによって、社会にある理不尽な抑圧や排除の意識化を試みた本展をキュレーター・檜山真有がレビューします。

例えば(私たちが優しくなってしまう理由)

 岩瀬海、櫻井莉菜、中島伽耶子の3人による展覧会『例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)』は、作品が1点の展覧会とも、作品が2点の展覧会とも、作品が3点の展覧会とも捉えることができる。会場内で配布されるA4見開きのハンドアウトには、展覧会タイトルと展示室図面、作品の素材のみが記されていて、作品タイトルや作者などの情報は鑑賞者に提供されていない。いかにもハンドアウトからでは作品点数は2点のように思える。しかし、展覧会内で継続的に行われたイベントと、展示室外の受付に展示されていたその成果物は、プロジェクト型作品と呼べるものであり、岩瀬、櫻井、中島がそれぞれ1点ずつ作品を寄せている作品点数3点の展覧会だと言うこともできそうだ。

 2つの展示室に貼られた同一の壁紙や、机と椅子というモチーフの記号的な対応関係、不完全な机と椅子がそれぞれの方法で縄によってどうにか均衡を保つという作品コンセプトが共鳴しており、2人の作家による1点のインスタレーションとして読みとることもできる。ひとりのキュレーターとふたりの作家、共作としての1点の作品の展覧会と考えることもできよう。だが、この三者の役割や誰がどの作品をつくったかということさえ明かさない、ともすれば不親切な本展は、展覧会をひとつの作品と読み解くのがもっとも辻褄が合う。

 展示室の壁はボロボロで、しかしよく見ると、はがれた壁の先にはさらに壁紙が見える。剥がされた仮設的な白い壁の断片は継ぎ接ぎし、机へと姿を変えている。展示室は場所そのものに意味を持たず、誰のものでもない「部屋」という性質を持つ。部屋の中に、さらに一回り小さい部屋をつくる壁を立て、その壁を壊して机をつくるこの作品は、そこにあるもの全てが計算されたテンポラリーなものであることを匂わせる空虚さを持ちながら、机を民主主義の開かれた象徴として扱おうとする。さらに、細い廊下の先に伸びる同じ壁紙の部屋は、開くことのないドアがあり、窓が大きく、小さいシャッターに閉ざされたカウンターがある。昼間の光が明るく差し込み、特段照明が不要なその部屋には、椅子が縄で引っ張られ三脚でかろうじて傾きながら立っている。縄と椅子をつなぐのはビニールで覆われた観音にも生ハムにも見える彫刻。机が民主主義のコンセプトであるならば、着席できない椅子はそれの危うさか、しかし、それに引っ張られる不穏な彫刻は何を意味するのか。

 展示室にある全ての記号を補完していくわけでもなく、別の意味へ誘うのが本展のハンドアウトに記された「展覧会のキーワード」である。

  • トランスジェンダー
  • 自分の加害性を意識することは可能か
  • 例え話
  • 秋田県小児療育センター
  • テーブル
  • お天気シート
  • ステッカー

7つのキーワードに、それぞれにコメントが寄せられている。作品からキーワードを抽出するのではなく、キーワードから作品を読むことが本展では為されており、この展覧会の特殊な性質により、作品は全く違ったものにうつるのである。つまり、概念(コンセプト)から文脈(コンテクスト)への読み替えが私たちに試されている。

 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内にある秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTは、もともとは秋田県小児療育センターであり、その建物をリノベーションしたのが本展の会場となる。本会場の日当たりの良さや不自然なカウンターもその名残と考えられる。展示室は部屋の中でも、もっとも人の生活からかけ離れたように設計されうるものだが、リノベーションされた部屋は、以前使われていた用途の形跡が残り、その蓄積について私たちはコミュニケーションをなさねばならないし、「展覧会のキーワード」にも秋田小児療育センターが挙げられているように、そのコンテクストの上に本展は成り立っている。そもそも本展はそのようなすでにないもの・言葉を交わすことのできないものとのコミュニケーションから始まっており、壁が二重になっているという作品の仕組みもそれを端的に表すものである。
 それをより具体的な問題意識として彼らが落とし込んだのが、タイトルにもあらわれる「痛み」の問題であり、例示として本展が明言しているのがジェンダーマイノリティーについてである。展覧会開催イベントとして開催された「おはなし会」のトークテーマは、それぞれ、家族、性教育、ハラスメント、痛みであり、私たち個人の身体というよりはそれを取り巻く社会が産むマジョリティー/マイノリティーとは何かということが話された(注①)。しかし、本展のテーマはそのような言葉によって編まれるものだけではなく、そもそも作品が持つ意味が本展の背骨となり、むしろ言葉はそれを支える筋肉のような役割を果たしていたのである。

テーブル
食卓、カフェ、話し合いや会議の場など、大きなテーブルがある場所は、人との交流、会話の場を想起させます。展示室1の中央に置かれたテーブルは、つぎはぎだらけで不安定な状態です。テーブルを、人と人とが言葉を交わす場所として、希望の象徴としてモチーフに選びましたが、同時にその困難さも感じています。

 このテーブルを囲んで話される私たち個人と社会の切っても切れない心の話は、二本の脚と天井からぶら下がる縄に天板をかけることでようやく立っていられるという脆さとリンクする。テーブルとおはなし会がひとつの作品となるとき、机単体とはまた異なった文脈が用意され、展示室2に進めばまた異なったよりパーソナルなものに関連するコンテクストへ連なる。
 ビニールに覆われた彫刻は自分の切除したかつての身体の一部。悪性腫瘍であろうが、脂肪吸引の脂肪であろうが、睾丸であろうが、乳房であろうが、自分の身体から離れた瞬間にすべからく血と脂にまみれた肉塊と化す。それと椅子がロープで引っ張り合う。椅子に着席した瞬間にその均衡は崩れ、縄が緩むか、椅子が倒れるか、彫刻が折れるかだろう。一言に「トランスジェンダー」と言えるが、彼ら・彼女らの(そして自分のことをシスヘテロだと思い込んでいる私でさえも)ジェンダーの獲得はグラデーション的で、距離感はそれぞれだ。けれども、「性別」という画一的な面が社会を規定するために椅子と彫刻とロープは星座のようにきちんとした距離感で不安定を保つしかない。

 モノから言葉を導くことと、言葉からモノを読み解くことの往還はかようにもすれ違う。本来であれば、コンセプトに沿わないデザインや、そのモノが想像できない言葉の表現は優れたものとは言えない。例えば、脚が高すぎる机はピロティという方がふさわしいし、「赤くて甘いもの」という言葉が指し示すものが椅子であるには言葉不足である。そういった意味において本展はモノと言葉の往還がまるで上手くいっていない。しかし、それをあえてやっているとしたらいくつかの理由があるに違いない。

 W.ベンヤミンは『暴力批判論』で法と正義、手段と目的という補助線を用いて、暴力の批判がどこへ向かうのかを論じる。暴力が許されるとしたらどのような条件においてか、という問いについて暴力を定義することで答えを見出そうとした。法という暴力の定義を定める言葉の絶対性に対して、詐欺などの欺く言葉が処罰の対象になっていった歪んだ経緯を「自己の暴力への信頼」の失墜とし、「他者への恐怖と自己への不信とが法の動揺をしめしている(注②)。法は、法維持の暴力を派手に持ち出すのを避けることを、目標としはじめている。」と述べる。互いに交わされる言葉の絶対的な信頼が暴力の原理的な排除であるとしたら、言語を理解できないものはその中でなす術がない。外国人、動物、子ども、障がい者など言語によるコミュニケーションが難しいものたちは、話し合いという暴力の原理的排除が不可能であるため、そもそも暴力を定義するものの庇護にすらなく、原理的に丸腰である。彼らのことが無視できなくなると、法は彼らを守るというよりは言語のコミュニケーションの俎上に上げるべく法制度により彼らを定義する。
 言語的コミュニケーションとは異なるコミュニケーションによって発展してきたアートは、常にベンヤミンの論じた暴力とは本来的には無縁なもので、それを取り巻く批評や展覧会で生じる言語的コミュニケーションによって、社会との接点を持ち続けていた。作品を翻訳する言語的コミュニケーションの役割が展覧会にはある。これまで行われてきた多くの展覧会は、たとえその内容が作品をはなから翻訳していなくとも、コミュニケーションのルールを守ることで、翻訳内容が虚偽ではなく過失の誤りであるという処罰から逃れるような体裁を保っていたし、実際、それが異化効果として働くことで、アートにおける言語的コミュニケーションには特異な地位や権力があるように見せかけていた。しかし、本展はそのようなルールを放棄して、彼ら・彼女ら独自のルールを設ける。たしかに言葉とモノの往還表現については読み取ることが難しいが、それは彼ら・彼女らが別のコミュニケーションのあり方を私たちに提示しているからではないか。

 彼らが本展で試したことは、展覧会をコンセプトからつくるのではなく、コンテクストからつくりあげるというものであった。私たちはコミュニケーションを単一の「ことば」で、かつ、やりとりされている時間軸の中でのみ行っているわけではない。個々人の抱える背景、生きてきた時間、話す言葉、話されている環境、時代、ことばにならない視線、空気の中でコミュニケーションは行われる。そういったものをコンテクストと呼ぶのであれば、本展は展覧会が持つコンセプトという中心性よりもむしろ、展覧会のコンテクストを分かち合う周縁性に関心が向いていた。それは展覧会や作品が誤読される可能性もはらむものであるが、加害の可能性を選ぶのであれば、被傷性を受け入れたい。言葉のあやふやでやわらかでもっとも嘘に近しい部分と、作品という「ことば」のコミュニケーションとは異なるコミュニケーションで本展は限りない読みを拓く。私たちが優しくなってしまう理由。それは、暴力とは無縁の世界をつくる念入りな言葉に限らない合意の方法を見つけてゆくからだ。

注① 筆者は6月18日(土)「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」に参加した。
注② ヴァルター・ベンヤミン著、野村修編訳「暴力批判論」『暴力批判論他十篇 ベンヤミンの仕事1』岩波文庫, 1994年, p.48

撮影:越中谷優一

Profile 執筆者プロフィール

キュレーター

檜山真有 Maaru Hiyama

1994年大阪府生まれ。キュレーター。2023年よりリクルートアートセンター入社。キュレーションした主な展覧会に雨宮庸介個展『雨宮宮雨と以』BUG、東京(2023)、『谷原菜摘子の北加賀屋奇譚』クリエイティブセンター大阪、大阪(2023)など。今は新潟で田中藍衣個展『リバース ストリング』越後妻有里山現代美術館MonET、新潟(2024)をつくっています。キュレーションといっても展覧会企画だけではなく、もっと社会の可能性を投企したいという気持ちでジタバタしています。

Information

「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」

展覧会は終了しました
▼ウェブサイト https://biyongpointexhibition.jimdofree.com/
例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)ポスター(PDF)
■会期:2022年4月29日(金)〜7月3日(日)
   会期中無休、入場無料
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
   (秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ、trunk
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
■グラフィックデザイン:コマド意匠設計室
■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137  E-mail bp@artscenter-akita.jp
新型コロナウイルス感染症の感染拡大状況により、展覧会の開催期間や内容が変更になる可能性もあります。

※2021年度秋田公立美術大学内公募事業「ビヨンセレクション」採択企画

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた

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