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手で「写す」ことから真澄にアプローチする

服部 長坂さんはこれから「写す」ことをやっていくわけですよね。「写す」という行為をどういうふうに考えていますか?

長坂 私は絵を描く人ではないのですが、今回、まずは手を使って描くことが大切だと思っています。一度、自分の手を使って描いたものを、さらにもう少しずらすという意味でシルクスクリーンにしようと思っています。一度描くことにはいろいろな意味合いがあると思っていて。いろいろな人のいろいろなアプローチがあると思うのですが、私はアーカイブをアーカイブのまま、作品として見せるのはどうなんだろうと思うのが1つと、今回においては原本を見せられない難しさもありますし、作品的観点から言うと自分で描くことによって原本の絵を自由にしてあげる、解放してあげるみたいな意味合いもあります。

菅江真澄も南方熊楠もそうですが、印刷技術がなかったからでなく学ぶ手段や体験する手段として、自分の興味のある本の抜粋や絵などを写すことでそれを自分のなかに取り込んでいったという感覚があります。真澄は旅の途中にメモ的に描いていたものを清書したりして、そのバージョンを泊めてもらった家の人にあげて、また次のバージョンをつくって…というように繰り返し描いていて、最後に残ったものが現在のものです。今回においては、手で「写す」っていうことをやってみたいと思います。

唐澤 熊楠の話が出ましたが、彼の集中力って半端なくって、対象に深く入り込んでしまうんですよね。それを彼は「直入」と呼んでいます。ただ、熊楠には絶対外せない熊楠フィルターがあるわけで。直入して、彼のフィルターなり網のようなもので掴み取ったものを、彼の中で再構成して、アウトプットしたときにすごく面白いものができる。だから直入した対象と彼がアウトプットしたものというのは、やっぱり少しズレが生じているわけです。そして、そのズレによってすごく面白いものが生まれる。その辺り、長坂さんと通じるものがあるのかなと思いました。

真澄は「木」の何を描きたかったのか

服部 ここからは、ご質問、ご意見を会場の皆さんにうかがいたいと思います。

小松 仁鮒のイチョウについてですが、現地に行かれたことありますか?

長坂 まだ行っていないです。

小松 ぜひ行かれた方がいいと思います。200年前に真澄が描いているのですが、そんなに変わっていないんです。どうやってそれを表現したのかというのを行ってみて見比べてみると面白いと思います。筏(いかだ)の大杉(横手市山内)であるとかいくつか真澄が記録した木のなかで今も残っているものをピックアップして、県内をフィールドワークされるとより面白い作品ができるかなと思いました。本当に200年経っても変わらない風景というのはあるんですよね。山ももちろんそうですが、木のなかで真澄はどの部分を強調したかったのか、そこに彼の描きたかったものが実際に見ると見えてくるのではないかと思いますね。

長坂 確かにイチョウの木は、構図が凄いですよね。いっぱいいっぱいな感じで。そこに描かれているものの切り取り方とかが、面白いですよね。

小松 真澄のことを取り上げて何かをしようとすると、彼はバイタリティがありすぎてどう扱っていいのか分からなくなることが結構あるんです。でも長坂さんは「木」というものにフォーカスしたのが非常に面白い。そこを一点集中で攻めると、より真澄の奥深さが見えてくるのかなと思います。

 本物と複写の違いは、衝撃的ですね。原本を見て、全然違うじゃん!と思いました。現地には、ぜひ行ってみた方がいいと思います。樹齢千年規模の木の前に行くと、その存在感は「木」ではないんですよ。木ではなく「何者か」であるみたいな。そういう存在感と営み、時間の流れみたいなもの。その場所に祀られるべき理由があり、人の手によって植えられて、なおかつ目をかけられてきた。その営みの存在感というのが圧倒的に違うというのが描いてきた理由でもあるし、その地域の人にとってそれを描くということがいかに重要だったか。そこに他者が入ってきて、言葉も書けて絵も描けるなんて、スーパースターみたいな感覚がある。

それは僕もパプアニューギニア時代に経験していて。パプアニューギニアの奥地では日本人がいるだけでじっと見られる。何かするだけで喜んでくれる。そのなかで僕も描いてたんですよ。地元の子どもの顔を描いたり、長老の顔を描いてあげたりすると、写真がないし印刷物、メディアというメディアが全てない世界の人たちにとって、それを描いて見せることは超娯楽なんです。今回、描くこと、記録することの価値を改めて感じました。

真澄の「木」の表現の方法としては、空間を描いている気がするんです。なんというか、「空」の方を描いているというか。幹の内側にある線の執拗さというか。長坂さんの直入の仕方もある種、変態的というか、超えてる感じが面白いんですよね。あそこまでリスト作らないですからね。あれに僕は感動しました。

長坂 当初は、現地には行かないでおこうと思っていたんです。あくまでも「真澄が描いたもの」をベースにして追体験しようと思ってて。11月の展覧会が始まってから実際の場所に移動する、というように、展覧会を1つの区切りのような、「門」みたいなものとして考えてたんですけど。博物館の方からデータをいただいた時に、オリジナルと複写にここまで違いがあるということに気づいて、愕然として。今もお話をしながら「真似る・学ぶ」と「なぞる」こととの違いを考えていて。真似る技の上手い下手ではなく、実際のものがある場所を体験する。そして木の周りにあるものなども知っていながら木を描く。というのが大切なのかなというふうに制作の仕方を再検討しているところです。

それと、私は今まで真澄は「記録のために描き残している」という印象を強く持っていたのですが、写真や文字や絵などがない地域に生きている人が、自分たちが常に見ているものを似せて描いてくれたりしたら宝物みたいになるということを初めて認識させていただいて。ありがとうございます。

服部 長坂さんが見た真澄の絵は、データなんですね。実物はまだ見たことがないということで。美術品とは思われていないから、実物に意味があるわけではなくて、情報や文献として重視されている。物として愛でる対象とはされていなかったわけですよね。これはすごく重要な観点ですよね。美術ではない観点から評価をされていた。

 菅江真澄の作品性ということを考えると、実物である必要があるのかどうか。今のデジタルな社会のなかで、本物ってなんなのか、作品性というものを考える上で新しい在り方というのがあるような気もしました。「この絵は本物じゃないから違うよね」ということでもない作品性というのが、彼の活動のなかにはあるのかもしれない。そこも掘り下げたいですよね。

唐澤 本物って一体なんなんだろうというのはすごく考えさせられますよね。デジタルだからこれは偽物だ、というわけではないし。複写しているものが面白いということも実はあるかもしれないですし。さらに、本物と偽物のズレというところでまた面白いものが生まれてくるかもしれませんよね。今回、本物って一体なんなんだろうというのをすごく考えさせられました。そういった要素も展示に盛り込んでいけると面白いかもしれないですよね。

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