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【未来の生活を考えるスクール】第4回レポート 「農業・遊び・絵本―子どもが世界と出会うときー」

【#秋田市文化創造館プレ事業】
新しい知識・視点に出会い、今よりちょっと先の生活について考える
「未来の生活を考えるスクール」(全4回)。
第4回は、「農業・遊び・絵本―子どもが世界と出会うときー」。

ゲストに迎えたのは、秋田で農薬や化学肥料に頼らず稲・野菜づくりを行う「たそがれ野育園」園主の菊地晃生さん、おもちゃと遊びの専門店「のはらむら」を営む工藤留美さん、絵本をテーマに活動する「絵本と紙もの すずらん舎」代表の澁谷香織さん。「ギャラリーものかたり」を主宰する小熊隆博さんが聞き手となり、これからの未来、子どもが世界とつながる方法を探りました。

※「未来の生活を考えるスクール」は、「秋田市文化創造館」プレ事業〝乾杯ノ練習〟の一環です(秋田市委託事業)。詳しくは#乾杯ノ練習

菊地晃生 (写真左 たそがれ野育園 園主)
1979年秋田県生まれ。豊橋技術科学大学大学院修了。名古屋工業大学大学院を経て、2005-2007年高野ランドスケーププランニング株式会社入社。2008年帰農。農薬・化学肥料を使わない栽培方法での営農を実践・自主販売を始める。「ファームガーデンたそがれ」として水稲ほか大豆、小麦、ブルーベリー、枝豆などを主に栽培。また「たそがれ野育園」として、農的暮らしの学び場を主催している。その活動で2018年環境省第6回グッドライフアワード森里川海賞受賞。

工藤留美 (写真左から2番目 のはらむら 代表)
幼稚園教諭として20年間幼児教育に携わった後、大学職員を経て2014年におもちゃと遊びの専門店「のはらむら」を開業。木のおもちゃや絵本、アナログゲームを取り扱っている他、おもちゃ選びのアドバイスや保育環境のコーディネートを行っている。また、「あそび」と「おもちゃ」の大切さを、ワークショップやイベントを通して伝える活動を行っている。

澁谷香織 (写真右から2番目 絵本と紙もの すずらん舎 代表)
図書館司書として約12年間県外の県立図書館に勤務。結婚を機に地元秋田へと戻り、2014年より「絵本と紙もの すずらん舎」として活動を開始。オリジナルの紙雑貨の製作販売と、絵本の読み聞かせやワークショップ、中古絵本の販売、絵本による空間作りのお手伝いなど「絵本」をテーマにした活動を行っている。

小熊隆博 (写真右 ギャラリーものかたり 主宰)
2015年まで7年間「ベネッセアートサイト直島」(香川)の美術施設の運営管理に携わった後、合同会社みちひらきを設立。2016年に絵本、地元職人によるオーダー什器等を展示販売するプロジェクト型ギャラリー「ものかたり」(秋田県五城目町)を開設し、近年は秋田公立美術大学による地域連携型アートマネジメント人材育成事業「旅する地域考」(2018-)、東北の子どもに向けた芸術教育支援活動「子ども芸術の村プロジェクト」(2016-)の企画運営に参画。京都芸術大学通信制大学院芸術環境研究領域非常勤講師。

【第1部】菊池氏、澁谷氏、工藤氏のお話

●世界と出会ったのはいつですか?

小熊 僕には4年生と2年生の子どもがいるのですが、最近屁理屈を覚えてきて、それに僕も屁理屈で返してしまって、どうしてあんなやりとりをしたのだろう、と落ち込んでしまうんです。今日は、お三方に、育児論や子育てテクニックを教えていただけるんじゃないかな、と思っていらしている方もいると思います。そういうお話もこぼれるかもしれませんが、今日は「子どもが世界と出会う」と言いますが、僕たちは「子ども」も「世界」も普段それとなく使ってしまうのですが、そもそも「子ども」とか「世界」って何なのか、捉え方も様々ですし、そこから考えていけたら楽しいのではないかと思っています。

先程、子どもとのやりとりで僕が落ち込んでしまうと言ったのは、やはり「大人気ないな」と思うからなんですよね。でも、自分はそもそも「大人」なのか。今は少し歳をとっているけれど、かつては「子ども」だった。自分の子ども時代を振り返ってみると、見えてくるものがあるかもしれません。

僕からの最初の質問として、お三方の活動紹介に合わせて、お三方それぞれ、「世界」と出会ったのはいつですか、とお尋ねしたいです。

国内から世界に渡る「世界」もありますし、普段は家でお父さんやお母さんなど家族と過ごしているけれど地域の大人たちと出会う「世界」、世間という意味もあります。あるいはそれぞれが活躍されているフィールド、それも「世界」と言っていいと思います。

●「たそがれ野育園」のはじまり

菊地 「たそがれ野育園」という農的暮らしの学び場を、田んぼと畑のフィールドを使って活動しています、菊地晃生と申します。「野育」という言葉を思いついて、始めて8年になります。専業農家です。お米、大豆、麦を作って販売、あるいは加工して販売するのが主な仕事ですが、「たそがれ野育園」も主宰しています。

たそがれ野育園を始めたきっかけは、一番目の子が生まれて二番目の子を授かったときに、(ちゃんと考えていなかったんですよね、)子育てが大変で農業も忙しく、みんながそうしていますし、子どもを保育園に預けたところ、喪失感があって、モヤモヤした気持ちが続いたんです。子どももいい顔をして行っていない、というのを最初の頃読み取れて。それでも半年は預けたのですが、夫婦でいろいろ話し合いました。そもそも農的な暮らしをしようと考えたのは、自分たちの食べるものは自分たちで作りたい、お米や野菜を自給したい、自分たちの食べる分は自分たちの仕事の中でまかなっていきたいという思いからだった。なのに子どもを育てることを他人に預けてしまっているのではないかと気がついたんです。

ある日夫婦で相談し、明日から保育園に子どもを預けるのをやめよう、父さんが野育園するから一緒にいようと決めました。うちの子を、自分の仕事場である田んぼや畑、裏山で育てようと。背後の自然を含めた自然をフィールドに、子育ても自分たちで引き受けようと考えたのが、この「たそがれ野育園」の始まりです。

1年ほど続けながら情報発信をしていたら、うちの子も体験させてみたい、入れますか、という話をいただき、公開でやってみようかなと。その次の年に10数組から始めました。一枚の田んぼをそれぞれに割り当てて、種まきから稲刈りまで、稲の一生をすべてそこで体験します。お米の自給体験を基本的なメニューにしながら、例えば春になれば、その近くで山菜を取ったり、田植えが終われば伝統食である「笹巻き」作りをし、「さなぶり」という伝統行事をしたりとか。夏になればジャムを作って、トマトでケチャップを作って、草木染めもしてみます。冬になったら餅をついて、しめ飾りを作って、味噌を仕込む。一年を通じたいろんな百姓の仕事を、田んぼをやりながら子どもたち含めてみんなに体験していただく。それが野育園のプログラムです。

参加しているみなさんと田んぼでやるライブイベントのアイデアを練ったり、最近は「キッチンファーム」という、売るための野菜ではなく、参加者が自分たちの食べる分を自給しようというコミュニティファーミングを試したりしています。

●景観設計から農業へ

小熊 菊地さんのもとにこのように人がすぐ集まってきたのは、菊地さんがもともと農業のプロだからですか?

菊地 そうではないんです。僕は大学は土木と建築を学べる学科に行って、エンジニアが最初面白いと感じていました。だんだん建築の意匠的なところに魅せられ、ブランディングやデザインをやりたいなと思うようになりました。就職は「ランドスケープ・プランニング」という、造園の計画や設計、都市計画のブランディングなどをしていました。

北海道の小さな建築事務所で働いていたときに、家の田んぼをやっていた祖父が交通事故に遭い、それが転機となりました。ランドスケープの道でやっていくことも自分の大きな夢でしたが、生まれ育った秋田のことを考えたときに、 じゃあ生まれ育ったところをどうしたらいいのかについて、そのとき初めて考えさせられました。

自分の故郷の風景をよくしていくために自分は活動していかなくちゃならない、と切り替えて、建築やランドスケープの経験を持ち帰り秋田でやればいいんじゃないか、と思いました。でも農業のことは念頭になくて、秋田で農的暮らしをしながら新しい生業をつくる、という気持ちでした。

その後、大潟村の農業法人さんで1年間、基本的な植物の栽培技術や、肥料設計、農薬散布、機械の使い方、経営など、農業でやらなければならないことを、全体的に見せていただきました。

あるとき、大規模経営の某トマト加工会社の契約トマトを見せてもらいました。トマトの栽培技術は会社からマニュアルが送られてきます。そのマニュアルに従ってやっていると、毎日農薬を散布しなくてはならない。それをコンテナに収穫していくとき、白い粉がついたまま入れていくんです。それがそのまま例えばジュースになって売られていると思うと、自分は食べているものの背後が全然見えていないんじゃないかと、危機感を覚えました。

農薬散布や化学肥料を使うことは、土や水を介し、全部私たちに返ってくる。自分は農薬や化学肥料を使わずにできる栽培を、文献で調べたり、千葉まで通ったりして、独学で習得しました。

農家の生まれでしたので、爺ちゃんが田んぼや小屋で何かしているのは横目で見ていましたが、興味がなくて。まさか自分がやるとは、という感じです。

●原風景は黄昏

田舎を出て都会に行きたくて、いや都会と言っても、東京ではなくて、大学があった愛知県豊橋市は海が近く、秋田と似たような地方都市でした。とても居心地がよくて。大都会では生きている実感を僕は持てなかった。農家の長男に生まれたという自負が、心の片隅にあったのかもしれません。

就職した先で秋田の風景を考えたとき、圧倒的に田んぼ、田園をまずは思い浮かべました。「たそがれ」と名付けたのは、秋田県は沿岸がすべて西に向いている、夕方、日本海に沈む夕日を見ているだけでなぜか涙が出てくる。そういう風景があるなと思っていて。秋田のいいところをイメージしたとき「たそがれ」だったんです。外にいることで見えてきたこともありますし、ある程度自分の経験が蓄積されたことで、新たな自分の故郷の一面が見えてきたのだと思います。

●絵本を私は極めたい

澁谷 「絵本と紙もの すずらん舎」の澁谷香織と申します。私は美郷町を拠点に活動しています。主人が営むデザイン事務所の一部門として、絵本を中心にした活動と、オリジナルの紙ものの制作などをしています。絵本の活動としては、読み聞かせや、絵本をテーマにしたワークショップ、絵本を使った場づくり、中古絵本の販売などをしています。

知り合いのカフェで、「子どもパン教室」があるんですけど、パンは1時間くらいの発酵時間が2回あって、その間に絵本の読み聞かせやワークショップをしたりしています。パンが出てくる絵本や、サツマイモのパンの日だと、サツマイモが出てくる絵本を読んだりします。

今年は子どもと接する活動が一切できなかったことは残念でしたが、いつもは年に何回か中古の絵本を仕入れてクリーニングをし、イベントで販売したりしています。先日、刊行されて50年以上経つ『いないいないばあ』が累計700万部を超えたとニュースになりました。絵本界ではそういう絵本がざらにあって、昔から読まれている本が現役で子どもたちに愛されています。絵本は時代を超える特殊なジャンルだと思うんです。そういう絵本を今の子どもたちにもつなげたいな、という気持ちで活動しています。

私が絵本に出会ったのは、大人になってしばらくたった頃です。幼少期に絵本を読んでもらった記憶は全然なくて、実家は今は大仙市、旧中仙町の専業農家でした。その辺に放って置かれていて(笑)。一人で本を読んでいるのが好きな子どもでした。その影響で本に関わる仕事がしたいと思ったのと、図書館も好きで、図書館で働くには資格がいると知り、山形の短大で司書の資格を取って、その後、宮城県の県立図書館で司書として勤務することになりました。

若い頃は、絵本の癒しより、純文学のようなヒリヒリしたものに惹かれていて、絵本というものを分かってなかったし、子どものもの、子どもに関わる大人のものだと偏見を持っていたんです。そのうち中学生以下を対象にした児童図書の担当になりました。配属されてなかったら、絵本に縁がなく生きていったんだろうなと思います。働くからには勉強しなければと、1日3冊読むようにしました。そしたら1年で1000冊くらい読めるかなと思って。そうしているうちに絵本の削ぎ落としていく力、抽象的なものをいかに子供に伝えるかなど、その世界の奥深さと芸術性に驚いて、なんと敷居の低いアートだろうと感動しました。これを私は極めたい、と思ったんです。

●「すずらん舎」の「すずらん」は可憐で強い

とても充実した日々を送っていましたが、結婚を機に秋田に帰ってきました。自分の学んだことを生かして活動したいな、と思って始めたのが「すずらん舎」で、今年で6年目になります。

私も絵本には大人になって出会ったので、大人の日常に絵本があるといいよ、というのを活動しながら広めていきたいと思っています。絵本は対象年齢に上限がない世界で、一生のパートナーになると思います。

絵本で活動していると保育に長けているように思われるかもしれませんが、自分の子どもが1歳3ヶ月で、育児に関しては目下勉強中です。

すずらんは可憐なイメージですが、秋田の冬にも負けず毎年花が咲き、逞しく、また毒もあります。「すずらん舎」はそういうイメージを持って付けました。

小熊 いい話やためになる話があるからこそ、教育に役立つとも言われているんですが、海外のアーティストが描いた絵本など、全然救いがない結末のものもありますね。

澁谷 残酷な内容も、受け手である子どもを見守る親がそばでフォローしてあげれば、大丈夫だと私は思いますが、時代によって受け取られ方は様々で、簡単ではなくなってきていますね。

●幼稚園の先生がおもちゃ屋「のはらむら」をひらくまで

工藤 おもちゃの販売と遊びの提案をしている「のはらむら」の工藤留美と申します。おもちゃを始めて今年で6年です。あっという間でした。それまでは幼稚園の教員を20年勤め、その後大学の職員としても数年勤めていました。新任で勤めた幼稚園は、遊びを大切にしている幼稚園で、おもちゃのこだわりはもちろん、週1日は、園長先生の考えで自分の感性を磨くための時間をくれました。子どもたちに瑞々しい感性を伝えられるように、午前保育終了後の午後の時間を観劇やウインドーショッピング、習い事などの時間に充てるようにと。そのおかげで気持ち豊かに勤めることができました。

おもちゃ屋になった理由は、おもちゃが好きだとか子どもが好きとか、遊んでいる子どもを見るのが好きとかいろいろありますけれど、まさか自分がお店をやるとは思っていませんでした。商売は別世界でした。

きっかけとなった一つに、大学附属の幼稚園に勤めた際に保育以外の仕事につかなければならないタイミングがありました。そのまま辞める選択もありましたが川の流れに身を任せてみようと、それで大学の図書館に勤めました。保育とは違うけれど与えられた仕事をとにかく楽しもうと思っていました。図書館で本を一冊一冊チェックする地道な作業は苦手だったのですが、出会う学生や先生にたくさん刺激を受けました。大学の研究センターの仕事もしました。客員教授の講演会や大学紀要を作成する部署に入りました。自分の専門以外の仕事を思いがけず、することになったことでぐっと視野が広がりました。

お手伝いした内舘牧子さんの講演会では、内舘さんが50歳になって大学院に入り直したと伺い、自分が本当にやりたいこと何はなんだろうと考え直したことで、おもちゃ屋を本腰で目指しました。

小熊 そうはおっしゃいますが、子育てをされながらの挑戦は大変だったのではないですか。

工藤 子どもたちは中学生と高校生で受験生でしたが、それなりに自力でできるだろうと見極めて、みんなそれぞれ頑張ろうという感じで、家事も育児も全て私が担いながら、新しいことにチャレンジしてみようとおもちゃの世界に飛び込みました。商売をしながらおもちゃのことも保育のことも学び直しました。

おもちゃ屋といっても販売だけではなく、おもちゃと保育環境、子どもたちの育ちにつなげるための適切なあそび環境を提案しているため、子どもの成長、発達を知るというのが基本にあります。保育園や幼稚園の先生の職員研修はもちろん、親子講座や様々なイベントで、多世代の方々に遊びやおもちゃ、絵本などの素敵な世界を伝えています。いろんな世界に出会ってもらいたい。様々な好奇心につながる種を撒きたいと思っています。

自分でも遊んでいて心地いいなと思うことを探ったり、子どもが何かを探究しながら発見している反応を見ているのが好きです。なので、ついついおもちゃを売ることよりも楽しいことに重きを置いてしまいがちになります(笑)。

これは昨年遊学舎で行った「あそびのはじまりフェス」です。

積み木遊びってこんなに楽しいんだよ、こういうこともできるんだよと知るきっかけ作りに積木ショーを行っているところの写真です。(ものづくりや遊びの広場、音を楽しむワークショップなども行いました)。電子ゲームやテレビがないと、子どもは五感を使って一生懸命熱中して遊ぶんですよ。幼い時は特に五感をフルに使って遊んでほしいと思っています。

●何かを自分で作ったことは覚えている

父は鹿児島、母は秋田の人です。小さい頃から父が小刀を渡してくれていたので、ナイフで削って何かを作るのが遊びでした。父親は単身赴任でしたので、母親が毎日絵本を読んでくれました。父はテープに(読み聞かせを)吹き込んで置いていきました。私は3人兄弟の長女だったので、読み聞かせのとき、下の兄弟が2人が母親の両隣。母との距離がどんどん離れていくのが悲しく感じることもありましたね。

小熊 覚えているんですね。自分が働いたり、つくったりする立場になって、幼少の頃を思い出す、というのはありますか。

工藤 自分で何かを作ったことをよく覚えています。母親が「縫いさし遊び」を教えてくれた場面とか父親がテープに吹き込んだ絵本の物語の声とか、父親が出張で行く先々の民芸品を買ってきてくれたり、お土産が木の皮などの自然物ということもありました。私はワークショップも主催しているのですが、どうしたら楽しくワークショップに参加してもらえるかなぁと考えるきっかけに、幼少期の体験が活かされていると思います。

【第2部】小熊氏から3人に質問

●ターニングポイント

小熊 お一方ずつ、ご自身が世界と出会ったな、というタイミングについて、これからセッションでお話しいただこうと思います。世界と出会うって、工藤さんのように、記憶に焼きついていることもあるでしょうし、本が好きだった延長で絵本が好きになった澁谷さん、いわば地面の上から下、建築から農業へとつながった菊地さんにとって、ターニングポイントはどのようなものだったでしょうか。

菊地 ターニングポイントは一つに絞れませんが、子どもの頃、親に絵本を読んでもらったり、野の花を摘んだり、これは食べられる実だよ、と教えてもらったり、その都度出会ってきたんだなと思いながらお二人のお話を聞いていました。僕としては、大学時代に父親が亡くなったときが、目の前が真っ暗で、自分が学ばなければならない、どうにかしなければならない、という意識が芽生え、仲間との信頼関係ができてきて、それがターニングポイントだなと思います。

澁谷 秋田を出てからは、仕事も充実していたし、職も安定もしていたし、もう帰らないんだろうな、と思っていました。でも突然父親が病気になり余命も告げられて、今すぐ帰りたいけど帰れない、心と体がバラバラになりそうでした。そんな時結婚の話が急に出てきて、流れに乗るように自然と秋田に帰ってきました。父を看取ることができたのですが、秋田で看取れたこと、もう一生後悔はないな、と思っています。帰ってきた秋田という場所は、生まれ育ったところで、良いところも知っているし、都市部とは違う人間関係の複雑さとか、雪という抗えないものとか、嫌なところも分かっています。分かった上で、帰ってきて良かったと、ここで自分のやりたいテーマをささやかですがやれていることを幸せだと思っています。

工藤 試行錯誤しながら幼稚園教諭として20年勤めたとき、100%正しい保育というのはないけれど、子どもたちとの一体感や自分が求めていた保育ってこういうことだなと霞が晴れた充実した1年がありました。もともと20年を節目と思っていたので、それまでの保育の仕事を辞めてお店の起業準備に入りました。そんな中、秋田で初めて木育イベントが行われ、新しい仲間との出会いがあったり、「木育」という言葉に注目が集まりはじめた時代に入ってきました。自分でアンテナを張っていると導かれる見えない力があるんだなぁとその時は思いました。波に逆らわずに今やれることをやっておこう、そんなことも心の中で思っていました。

●子どもたちの未来に一言ずつ

小熊 このスクールは「未来の生活を考える」というテーマがありますので、最後に子どもたちの未来に一言ずつお願いします。

工藤 これからの子どもたちには、想像を超えたいろんなことが待ち受けています。でも、生きていく力、基本的な力を備えておけばどうにかなる。「あなたは大丈夫」と言ってあげられるように、大人として子どもたちの未来を応援したいと思っています。

澁谷 絵本を読むことは、子どもの心に種を撒くことと言われることがあります。芽が出ないかもしれないし、思っていたのと違う芽かもしれない、芽が出るのもいつになるのか分からない、でも親としてたくさん種を撒いてあげたい、と思っていましたが、今はいや、土壌だな、と思えてきています。子どもと接していると、絵本なんてほんの一部分だな、と思いしみていて、模索中ですし、正解もないんですけど、今は種を撒く前の土壌を豊かにすることを探っていきたいです。

菊地 子育ては、百人いれば百通り違う考えがある、答えのない世界です。それでいいかどうかを日々自問自答して、その人が自分で考えることに意味がある。認め合う、そういう輪があればいいなと思います。僕の場合、子どもたちに出会わせたいのは、畑で育った瞬間の、畑で取れたての、トマト、キュウリ、そこでしか食べられない味。子どもの世界が広がる瞬間かもしれない。子どもが田畑に来ることで、僕らにない感性を教えてくれます。忖度がないからなんでも言うし、蛇を首に巻くし。親と子どもが出会った瞬間、それぞれの扉が開かれる、そこに未来があるんじゃないかと思っています。

Information

「未来の生活を考えるスクール」(全4回)
第4回「農業・遊び・絵本―子どもが世界と出会うときー」

日時|2020年12月13日(日)14:00-16:10(開場13:30)
ゲスト|菊地晃生(たそがれ野育園 園主)、工藤留美(のはらむら 代表)、澁谷香織(絵本と紙もの すずらん舎 代表)
聞き手|小熊隆博(ギャラリーものかたり 主宰)
会場|あきた文化交流発信センター「ふれあーるAKITA」
主催|秋田市

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