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言語化されるのを待つものたち せきしろ評 佐藤ことみ個展「言葉の向こう、無効」

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで、1月28日(日)まで開催した佐藤ことみ(秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修士1年)による個展「言葉の向こう、無効」。「言葉」に焦点をあて、人とのコミュニケーションの齟齬や行き違いから生まれた作品を展示した本展について、作家で俳人のせきしろ氏がレビューします。

以前、「何もない部屋にひとつだけ持ち込めるとしたら?」と問われ、ペンと答えた。何か思いついた時にメモしたいからだ。最近はメモしないとことごとく忘れてしまう。それはエッセイのネタだったり、何かの設定だったり、何かに使えそうなセリフやフレーズだったり、それこそ自由律俳句だったりする。メモする場所は、壁、床、天井になる。部屋は少しずつ文字で埋まっていくだろう。
そう考えると、部屋に持ち込みたかったのは「言葉」なのかもしれない。

真っ白な空間に言葉が加わると、なにかしら風景が現れてくる。わずかな言葉で白い空間は変化する。
たとえば「冬」という言葉があったならばどうだろうか?目の前は冬の空間へとあっという間に変わることだろう。体感温度が若干変化してもおかしくない。
あるいは「引越し前」という言葉。この4文字で荷物がまだ何も運び込まれていない状態が作り出される。一方「引越し後」なら荷物を全て運び出した後に見えてくる。なぜか思い出さえ生じる。
「箱の中」の文字があったら、ここは箱の中なんだと思い、思考実験の途中なのかと考えることができる。

佐藤ことみはさらに踏み込む。私が今行なったいわば「白い空間を見て一言」ではなく、空間とは無関係の言葉を飾ったのだ。
それらの言葉を見て、私はただただ考える。

用意してきた会話が全て裏目に出る

佐藤ことみ(以下同)

この言葉を見て、「ああ、これは経験したことがある」と思う人がいる。「こんなことないだろ」と思う人もいる。「何これ、意味がわからない」と思う人もいるはずだ。
同じような体験をしたことがある人ならその時のことを思い出して恥ずかしくなる人や、それを通り越して怒りが生じる人などもいるだろう。私は似た経験があるから、共感と羞恥が生じた。
同時に、そこまで親しくない人と駅で待ち合せをしてどこか目的地へ移動する間に用意してきた話題を早々と消化してしまい、その後無言の時間が流れたことも思い出した。
「○○好きなんですよね?」
「いいえ」
そこからは地獄である。

老人のマスクが鬼滅の刃

これほどどうでも良い報告は他にない。
しかしこれほど魅了されてしまう報告もない。
この言葉を見て「だからどうした」と思うのか、「気づきを与えてくれてありがとう」と思うのか、はたまた何も思わないのか、それは自由である。佐藤ことみはなにも強制していない。どう思おうが自由なのである。
老人がマスクをしていた、それは鬼滅の刃のマスクで、誰もが知っているあのお馴染みの模様だった。それを言語化してくれたわけだが、この言葉から私は「なぜ老人は鬼滅の刃のマスクをしていたのか?」を考え始める。

考えられるのは
①鬼滅の刃が好きだから使っているパターン
②鬼滅の刃のマスクをしたかったわけではないがするしかなかったパターン
③鬼滅の刃を知らないパターン
である。興味深いのは最後の知らないパターンだ。
ではなぜ知らないのにチョイスしたのか?
一つの理由としてデザインで選んだというのがある。聴いたこともないバンドのTシャツを着るのに似ている。また、単にお買い得だった可能性もある。デザインというより価格で決めたわけだ。
もちろんすべきマスクを間違えたとも考えられる。この老人は鬼滅の刃のマスクもそうではないマスクも持っていて、いつもはTPOに合わせてマスクを替えているのに、チョイスを間違えてしまったのだ。

見知らぬ後ろの人のためにいつもより大きめに扉を開ける

気配り、気遣いである。

これはエレベーターのボタンの前に立った場合「開」のボタンを押して他の人が降りるのをサポートするのに似ている。この行為自体賛否があるようだが、私はやってしまいがちである。私以外の人の中に「ボタンの近くにいる人は扉を開ける係にならなければいけない」という考え方の人がいる可能性があるからだ。その可能性がゼロではない限り私はボタンを押す。また、いつも押してるのにその時だけ押さなかったために「ああ、あの時押していれば!」という事態が起きて後悔するのもいやだからだ。ちなみに「俺のことはほっといて、早く行け!」気分が味わえたりもする。

エレベーターの開閉に関して私には別の問題もあって、それは「開」「閉」のボタンをよく間違えてしまうことだ。誰かが乗ってこようとした時に気を利かせて「開」を押そうとして「閉」を押してしまうことがあり、かなりの意地悪な人になってしまうのだ。

『見知らぬ後ろの人のためにいつもより大きめに扉を開ける』のように、私は扉を後ろの人のために大きく、そして手を伸ばして可能な限り長めにその状態をキープすることが多い。ただ、後ろに人がいない場合もあり、その時はかなりの羞恥であり、「あの人、誰もいないのに扉を開けてたな」とどこかで見ていた人に思われているのではないかと考えてしまう。足早に去りたいが、「あの人、恥ずかしくなって走って行った」と思われても嫌なので、堂々と歩くのである。

まあ、そんなもんかと言われた

自分ではうまくいったと思っていたのに「ドンマイ」と言われたら、その場では「頑張りが足りなかったかな」と自分を納得させるも、帰り道に思い出して「なんだよ、ドンマイって!」と苛立つ。そういう苛立ちは定期的に思い出すことになって、何十年経っても思い出すこともある。

「まだできたよな」と言われても同様である。あえてそういう言い方をしてこちらを発奮させる作戦もあるのだろうが、そのやり方が嵌まらない人には効果はない。佐藤ことみのこの「そんなもんか」も発奮形に分類できる。

嫌な顔をすると「お前のためを思って言ってるんだ」と言われることもあるが、こっちのこと思ってるんだったら一回褒めろと思う。

私に次々と考えさせる佐藤ことみの言葉。
どの言葉も共感を得ようとしていない。「感謝」がどうしただとか「自由」がどうしただとか「仲間」がどうしただとか「使い古されたあるある」だとか、手っ取り早く共感を得る言葉はどこにもない。そのため程よい違和感がある。
では佐藤ことみの言葉の正体は何なのか?
それは「言語化しなくても良い言葉」ではないかと私は考える。

1990年代、若い頃の私には暇と孤独しかなかった。それはまったく苦痛ではなかった。何もすることがないから考えなくて良いことばかり考えるようになった。

お菓子の家は排水口も仏壇も食べられるのか?
亀に乗った浦島太郎はどのタイミングで息ができるようになるのか?
床に落とした時絶望するのはシャープペンシルの芯か、それとも爪楊枝か?
最低で最悪な嘘は「ゾンビに噛まれていない」ではないか?

役に立たない情報がインプットだけされて、片付けられない部屋のように溜まっていくだけの時間が過ぎた。今のように自由に発信することは難しい時代であった。
家に飽きたら街をブラブラし風景ばかり見た。元々看板に書いてある文字を無意識に読んでしまう癖があり、誰にも聞こえないよう読んで歩いた。無断駐車の罰金の金額ばかり探す日もあり、1万円、3万円、2万円などと探し、10万円を見つけた時は歓喜した。
気づかなくても良いことに気づきもした。

空き家なのにアロエだけ育ち続けてる
あの人、大盛りにして残してるな
夏は自転車も事故車も光っている
室外機の上に植木鉢が重ねて置いてある
そろそろ家の前に置かれた椅子にランニング姿のおじいさんが座る時間だ

やがてそれらは幸運なことに作品としてアウトプットができるようになったわけだが、それよりも私は言語化しなくていいものを言語化する楽しさを知ってしまった。

佐藤ことみが今回作り上げた空間はあの頃の自分の頭の中のようだ。
『老人のマスクが鬼滅の刃』などと平気で言語化されている。
気づきを集めて再構築したような空間は懐かしささえある。

空間とは無関係な言葉だと思っていたはずが、いつしかかけがえのない大切なものとなり、手放したくなくなった。

ここに泊まれる。
ここで暮らせる。
ここで死ねる。
そんな空間だった。

作品写真撮影:劉孟琛

Profile プロフィール

作家・俳人

せきしろ Sekishiro

1970年、北海道訓子府町生まれ。作家、俳人。
『バスは北を進む』、『たとえる技術』、『去年ルノアールで』、『放哉の本を読まずに孤独』、『蕎麦湯が来ない』(又吉直樹氏共著)、『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子氏共著)ほか。BS よしもと『又吉・せきしろのなにもしない散歩』出演中。 https://ash-d.info/talent/sekishiro/

Information

佐藤ことみ個展 「言葉の向こう、無効」

※展覧会は終了しました

佐藤ことみ個展「言葉の向こう、無効」DM(PDF)
■会期:2024年1月9日(火)〜1月28日(日)
■会期中無休、入場無料
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
   (秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた

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