徐津君の展覧会タイトル「I am More -何百年の沈黙を破る」を聞き、思い出したのはメアリー・ビアード『舌を抜かれる女たち』であった。本書は、女性の声や発言が軽視され、時に沈黙を強いられてきた歴史を紐解いている。本書では「舌を抜かれる」ことによって、女性を権力から遠ざけられてきたと語られている。現在では、政治家をはじめとする管理職や法曹、大学教授といった権力のあるとされる職に就く女性は増えているが、たとえあなたが女性であっても、これらの「権力者」を思い浮かべようとすると男性を想像してしまうという人は多いのではないだろうか。このように、ジェンダーステレオタイプは文化に深く根付いている1 。
このような、ジェンダーの社会的な権力関係が、より具体的に日々の生活として反映される場所が家庭であり、ミクロな権力構造の蓄積が「家」という制度を延命してきた。
本作は、徐の家族に受け継がれてきた族譜(家系図)に、女性の名前が残されてこなかったことをきっかけに制作されている。
このような家系図を持つのは、もちろん徐の家系だけではない。レベッカ・ソルニットも『説教したがる男たち』収録のエッセイ「グランドマザー・スパイダー」で、家系図において女性の名前が記録されないことに触れている。
ある友人の家系は千年前までさかのぼることができるそうだが、そこには女は存在しないという。兄弟たちは存在するのに、彼女は存在しない。母親も存在しなかった。父の母も、母の父も。祖母などというものはひとりもいない。父たちには息子がいて、男の孫たちがいて、同じ名前が継承されて家系は続いていく。家系図が枝分かれして増えていけばいくほど、行方不明の人間が増えていく。姉妹、叔母、母、祖母、曾祖母。書類の上で、歴史において、驚くほど多くの人物が、その存在を消し去られていく。
レベッカ・ソルニット著、ハーン小路恭子訳(2018年)『説教したがる男たち』左右社、p.63
家系図から女性が消し去られることについて、実際の生活のなかで彼女たちが夫や兄弟に敬われているならばそこまで深刻にとらえる必要はない、と考える人もいるかもしれない。しかし実際にここで行われているのは存在自体の軽視である。「家父長制も家系図も物語も、その一貫性は消去と排除のもとに成立している2」のであり、その背後にある意識が社会へと循環していくことで、私たちは今も女性を軽視する文化を捨てきれていないのだ。
家父長制は常に女性の権利を阻むものと目されてきたが、その敵がどこから、どのように現れ、そしてどのようにその力を増していったのかについては、実は唯一の答えがあるわけではない。男性のほうが腕力が強いからとか、性欲が、あるいは所有欲が強いからといった「生物学的」とされる理由によって規定されることが多いが、それらも必ずしも絶対的なものではない。
アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』によれば、インド北東部メガラヤ州に暮らすカーシ族は今日に至るまで母系制の社会を維持しているという3。また、かつて母系制の社会を築いていた先住民の人々はヨーロッパ人の入植後に英語を学ぶようになったとき、「男性のことをshe、女性のことをhe」と言ったことが記録されているという4。「英語ではheのほうが重要な性を表しているため、彼らは意識的にせよ無意識的にせよ、代名詞を入れ替えた」とサイニーは指摘する。これらの例は「生物学的」に「家父長制」が導かれたという考え方を否定するものである。
こうした背景を踏まえると、徐の作品は家父長制の伝統が当然視されてきたことに問いを投げかけるものであるとわかる。

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTの展示室に入って左側の壁面に展示されていたポートレートは、徐が作品の趣旨を話して撮影を頼んだ際に、「女性の名前が残されてこなかった」という問題提起について、その問題性を共有できなかった親族たちだという。彼女たちにとって、家系図とは男性のものであり、そこに女性の名前が掲載されないことは至って普通のことだったのだ。言うまでもなく、徐は彼女たちがその問題を理解しなかったこと(あるいは、できなかったこと)を責めるつもりなど毛頭ないだろう。しかしながら、やはり家父長制を作り上げるのは男性だけではなく、消極的に強化されていくという事実もまた、本作が指し示しているものである。
ところで、ポートレートと族譜、取り壊された生家の土地の写真で構成される徐の作品は、「沈黙を破る」と銘打たれている割には、静謐な印象を与えるものである。「存在ごと消される」という構造的暴力のなかで、徐が用いるポートレートという方法は、非常にシンプルだ。そこに写る姿から彼女たち自身の考えや彼女たちの暮らしをうかがい知るのは難しいために変わらず沈黙を貫いているようにも見えなくもない。
しかし、徐が用いる写真という方法は、こうしたテーマに対して、彼女たちの存在をイメージとして残すものである。ソルニットは先に紹介したエッセイにおいて、「女性がイメージを作ること」について、以下のように語っている。
ほとんどの女性は、絵を描くことによって自分の内面のイメージを公に表現することも、世界を見る方法を定義することも、生計を立てることも、五百年経ってもだれかの目にふれるようなものを生み出すこともできなかった。
レベッカ・ソルニット著、ハーン小路恭子訳(2018年)『説教したがる男たち』左右社、p.71
ソルニットは、家系図から女性が排除されてきたように、芸術の領域への参加が許されず、美術史という物語からも排除されてきたことを指摘している。なお、徐が用いるのは絵画ではなく写真であるが、写真史においても同様に男性中心に歴史が語られてきたという問題を指摘できる。
他方で、現在、徐の家に伝わるように族譜が残されている家庭はそう多くはないのだという。族譜は、文化大革命に際しては旧来的な価値観を護持するものであるという理由から否定されるべきものだったからである。多くの族譜が破棄・焼却されたが、徐の家系のものは守られ残されていたという。
家系図において女性が消去され、そのうえ、家系図そのものが消されていったことを踏まえると、徐が彼女なりの方法で、自身も含む親族の女性たちの姿を残そうとすることは、極めて重要である。
本作は、彼女たちが点のように単にばらばらに存在するのではなく、あるいは単線的な物語に強引に回収されるのでもなく、それぞれの違いを示しつつ、しかしその姿から彼女たちの間のつながりを、わずかに、しかし、確かに感じさせる。そしてここから、彼女たちを含む新しい族譜が積み重なったり、広がったりしていく未来も予感させる。従って本作は、「何百年の沈黙を破る」だけでなく、数百年経っても、彼女たちの存在を残すための手立てでもあるのだ。
- 1:メアリー・ビアード著、宮﨑真紀訳(2020年)『舌を抜かれる女たち』 晶文社、p. 58 ↩︎
- 2:レベッカ・ソルニット著、ハーン小路恭子訳(2018年)『説教したがる男たち』左右社、p.63 ↩︎
- 3:アンジェラ・サイニー著、道本美穂訳(2024年)『家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか』集英社、p.47 ↩︎
- 4:アンジェラ・サイニー著、道本美穂訳(2024年)『家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか』集英社、p.82 ↩︎



作品撮影:越中谷 優一
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Information
徐 津君個展「I am More ー何百年の沈黙を破る」
▼徐 津君個展「I am More ー何百年の沈黙を破る」DM(PDF)
■会期:2024年9月14日(土)〜2024年10月14日(月・祝)
入場無料、会期中無休
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
(秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137 E-mail bp@artscenter-akita.jp
※2024年度秋田公立美術大学「ビヨンセレクション」採択企画