地図を片手に知らない街を歩く。すれ違う人々が視野に入る。個人商店の軒先で立ち話を楽しむ女性たち。スマホから目を離さず細い路地へと先を急ぐ若者の姿は、この街の風景を構成するのに不可欠な要素に思える。そんなことを考えながら、ふと、自分もあたかもこの街の住人であるかのように、見慣れた街並みなど気にもとめないふりをする。しかし、それも長くは続かない。なぜなら、見知らぬ風景をできるかぎり視野に収めたいという欲望に負けてしまうから。旅人の特権は好奇心に身をゆだねられること。そして、本人が望むのであれば、道に迷うという自由が約束されていること。
井上愛萌個展「インサイド‐地図帳より」は、井上から手渡される地図帳である。この地図帳では、井上自身がある地点を歩き、そこで得た知見をそっとさし出している。その意味では地図帳であると同時に、ガイドブックでもある。つまり、井上自身のユニークな手法で測量された地点を、今度は私たちがそれぞれの方法で捉えなおすために、そっと手を差しのべてくれるのだ。あくまでも「そっと」である点が重要である。彼女はツアーガイドではない。現役の旅行者であり続ける井上がつくるからこそ、私たち旅人にとって最良のガイドブックたり得るのである。


今回、地図帳には三つの地点が作品として示されている。そのうちの一つ、《買う肉、食う肉》について井上は「人に買われてから、食べられるまでの間に鶏肉が回転していることに気が付いた」と制作の動機を記している。もう少し説明をくわえてみると、「スーパーで販売されているトレイ入りの鶏の腿肉は、常に皮を裏にしてラッピングされているが、レストランで提供される腿肉のチキンステーキは必ずこんがりと焼き色のついた皮を表向きにする」ということになる。展覧会場では、二つの位相が等身大の画像として、表裏に貼りつけられたパネルを鑑賞者の手でくるくると回転させることができる。ここで玩具化された鶏肉の運命について考えてみる。瞬時に入れかわるbefore & afterは調理にかかる時間を超えて、鶏皮の変化はその印象と共に可逆的になる。やがて露わになるのは、私たちの日常が、実に奇妙な作法を作りだしているという事実だ。
国内でも赤瀬川原平から田中功起まで、さりげない日常を観察することから創造の意味や認識論を問う作家は、常に美術史の一角を担っている。しかし、井上は先人の実践を参照しているわけではない。先人のように、観察に新しい解釈を重ねるのではなく、あるいは、協力者に恣意的なタスクを与えるのでもない。先述した「井上自身のユニークな方法で測量された地点」というたとえを換言するなら、井上の作品は、ある事象に働きかけ、その意味するものを抽出して見せるだけである。ただそれだけの事なのに、驚くほどしなやかで、鑑賞後にさわやかな感動さえ覚えるこの体験はいったいどこからくるのか。
ヒントになりそうな本人の発言がある。井上は、さまざまなアートの場面で、表現者自身の特殊な属性を作品制作の動機とすることに疑問を投げかけている。今日では、個人のアイデンティティーにおいても、あるいは複雑化する社会集団においても、作者自身の境遇や当事者性を表現の根拠におく作品は多い。井上はその社会的意義について賛同するも、自身はある属性に捕らわれることを回避し、その作品をできるかぎりニュートラルな地点に着地させようと試みている。誤解を恐れずに言えば、井上は何らかの理由でアイデンティティ・ポリテイクスを利用しようとするアートから距離をおき、ごくシンプルな日常と地続きであることを前提に、私たちが平常心で共有できるアートを探求しているのだ。それを何かに例えるなら、誰もが手にすることができ、誰もが自身のやり方で旅人になることができる、「地図帳」がなによりもふさわしい。
そして、作家は今日も問い続けている。−この地図でどこまでいけるのだろうか−


作品撮影:草彅裕
Profile プロフィール

岩井成昭 Shigeaki Iwai
1989年東京藝術大学修士課程修了。国内外の特定地域における環境やコミュニティーの調査をもとに多様なメディアで作品を制作し、国際展やAIRを中心に発表。1990年代から多文化状況をテーマに、欧州、豪州、東南アジアにおける調査を進める。2010年より「イミグレーションミュージアム・東京」を主宰。秋田に拠点を置き、秋田公立美術大学大学院の新設に参与したほか「創造的辺境」を標榜するなどさまざまな活動を進めている。(秋田公立美術大学)
https://immigration-museum-tokyo.comProfile 作家プロフィール
Information
井上愛萌個展「インサイド -地図帳より-」

*本展覧会は終了いたしました。*
■会期:2024年12月14日(土)〜2025年1月13日(月・祝)
※年末年始休業期間(2024年12月28日〜2025年1月3日)
■入場無料
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
(秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137 E-mail bp@artscenter-akita.jp
※2024年度秋田公立美術大学「ビヨンセレクション」採択企画