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見えるもの さわれるもの 聞こえるもの
確かな身体にたゆたうもの

2019.05.14

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで開催された井本真紀による展覧会「触覚の地平」。身体性や物質性から生まれる井本の言葉、制作プロセス、作品との向き合い方に迫るギャラリートークの報告(2)です。

作品とは、接点にふと立ち起こる出来事のこと

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで開かれた展覧会「触覚の地平」。ギャラリートーク「流動するこころともの〜制作の現場から〜」では、素材と身体の関わりから紡ぎ出される井本真紀のガラス作品と言葉について、人類学者・石倉敏明氏(秋田公立美術大学准教授)、ガラス作家・瀬沼健太郎氏(秋田公立美術大学准教授)と共に語り合いました。

物質の物質たる存在感を成立させる「質感」。それと切り離して考えることのできない「触覚」という体験––。本展のキーワードでもある「触覚」について、井本が語ります。

報告(1)はこちら

CNA秋田ケーブルテレビ社屋内の秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで開かれたギャラリートーク「流動するこころともの〜制作の現場から〜」

物理的な「触覚」を超えた領域

瀬沼 井本さんが大事にされている「触覚」とは、井本さんにとってどういうものなんでしょうか。

井本 「触れる」というのは結局、何なんだろうなと、いま何となく頭の端で考えていたんですけれども。「触覚」「触れる」というのは結局、何のことを言っているのか––。展覧会を観にきてくださった方が先ほど「砂糖菓子みたいだね」とおっしゃったんです。それを砂糖菓子だと思って見ている人は、それを触ってはいないけれども、おそらくそれを噛んでいますよね。見たものを、奥歯で。それを「砂糖菓子だね」と見ている。砂糖菓子だと思った時には多分、それを噛んでいる。

シャリシャリしている。パリパリしている。硬いのか、柔らかいのか。触っていなくとも、「シャリシャリがここにある」とか、「怖そうだな」とか。中が空洞で華奢な作品を「壊れそうだ」「崩れそうだ」と思う人には壊れた時の「ガシャガシャン」がもうここにある。となると、実際にそれが触れるか触れないかというよりももっとたくさんのことを、ものを見ただけで受け取るはずなんですよね。「触覚」はそういったことをすべて含めた受け取りの話であって、実際に物理的な触る・触らないを超えている領域のように思います。

石倉 多分、触っているんですよね。目で触っているとしか言いようのない次元があって、事実、目で触っているんじゃないか。潜在的な「触覚」というものが動かざるを得ないような。先ほど、パリパリ、シャリシャリとおっしゃっていましたが、オノマトペってどうしても言葉として出てくると思う。「井本さんの作品を言葉にしてください」と言ったら、小学生でもシャリシャリとか出てくると思う。これが詩の発生だと思うんですよね。意味をどうにか伝えたいんだけれどもこれは分析的な言葉じゃなくて、触ってしまった自分の身体から出てきた言葉。

井本 触覚的にしか、言葉にできない‥‥。

石倉 そこが多分、井本さん自身の詩的な言葉とものの文法、ものづくりの方法論というのが多分、クロスしているところなんですよね。「触覚が交差するように」という、デリケートで難しいんだけれど面白い部分。これはやっぱり言葉とものの両方がないと分からないところかなと思いますね。

物語性を排除していく

瀬沼 おそらく多分、言葉だけでも作品だけでも成り立つ部分は成り立つと思うんでよ。でも一緒になることによってより伝わる部分はあると思っていて。作品だけ見て「これって何だろう?」と思ったとして、特に井本さんは言葉を書く人なので、作者の言葉が一緒にあることで井本さんがつくっていく心持ちというか、何を考えて世界を見ているのかみたいなことをちょっと追体験できる、垣間見られるというスリリングな体験ができる会場になったかと思うんです。ものをつくる時に表現したいことや伝えたいイメージがあって、抽象化された思いがあって。でも井本さんは、それを徹底的に排除するじゃないですか。井本さんは物語性とかナラティブなものをどんどん削っていく。どうしてそういうやり方にたどり着いたんでしょうかね?

井本 そうなんだと思うんですよ、ものをつくるって。そういうやり方にたどり着いたというよりも、そこからしか出発できないような気がするんですよね、つくることは。それは何をつくるにしても素材がないとできない、歌を歌うにしても声がないと歌えないように。何をつくるにも素材という自分ではない何か、物質なり環境なりと交わらなければつくることはできないわけです。全てにおいて。本を書くにも文字がないと書けないわけじゃないですか。その時に、自分の表現したいものだということは先立たないと思うんです。人によっては、空を見てとってもきれいと思って絵にしたい人、写真に撮りたい人、一句詠みたい人、音楽をつくりたい人と分かれるのは、感情が先立つのではなくて自分と世界との関わり方がまず先立って、そこに自分の感情が後から来るような。

石倉 そこですよね。自分でつくるというよりも環境をつくり、立ち起こる状況をつくっている。これがね、小学校から美大に至るまで「あなたの感情を描いてください」とずっと繰り返される美術教育のあれですよね。美大生をその洗脳から解かないといけない。でもそれって難しいじゃないですか。自分が自分だということに一番気づきにくいというか。

瀬沼 ずっとそういう教育を受けがちじゃないですか、若いころ。ある意味、呪いみたいになっている部分はあるので。それを解除するのは僕は難しいと思ったタイプなので聞いてみたいんですが、どこで気づいたんですかね?

井本 それは何度も戻りますけれども、自分の行為を言語化する時にそうせざるを得なかった。自分が選ぶという次元でもないようなことかもしれないですけれど。選ぶ手前でそうせざるを得ず、その中で結局、私の場合はガラスがあって、熱があって、地球だから重力があって、環境があって、道具があって、私のこの163センチの身体があって。そうして接点をつないでいく。何を接点と見るのかというところがものをつくることの立ち起こりのスタートにおそらくなるので。

石倉 井本さんの思考の立ち起こりと、ものの世界での制作を経て作品が立ち起こってくるプロセスが同じであることがベースになっているじゃないですか。これは大事ですよね。ものをつくることは思考することだということをリチャード・セネットという哲学者が言っているんですが、これは非常に大事なことなんです。大学院の授業で必ずセネットの本を読むんですけれども、これが物語よりももっとベースにあるもので。ものを考えることは人間にとって当たり前のことかもしれないけれど、これがアーティストの制作と直結しているんだよということですよね。考えさせられるのではなくて、思考がどういう場で立ち起こってくるのかということをクールに観察していくとそれが作品が立ち起こるプロセスと重なってくる場面があるということですよね。それはやっぱり、井本さん、考えているなと。作品を見て。

井本 考えるというよりも、ぽいと考えてしまうように考えてしまいますよね。思考もそうだし、つくる時はつくろうと思ってつくるんですけれども、つくる中でドンドコドンドコいろんなものが動いていってしまうので。私の手の内だけでは当然コントロールもできないので、そうなってしまうところと、したいところの線や点とかをつないでいく。考える時にこの方向に考えたくてもそうはいかないのと同じで。

石倉 赤れんが郷土館で先生方の作品を見てきたんですが、やっぱりそれぞれに自分の文法や言語を持ってる方が多いと思うんですよね。特徴としてはまずものを出すというね。うちの大学にはいろんな専攻がありますけれども、それこそアーツ&ルーツ専攻だったら僕みたいに作家じゃない人がいたり、キュレーターがいたりで、ものとして出せないじゃないですか、本とかになるんですが。でもやはりものづくりデザイン専攻の先生方はものとして出す。スタイルがあって、そこで勝負する潔さとそれぞれの文法の違いというのはやっぱり面白いと思うんですよ。

それぞれまったくスタイルが違うじゃないですか。ガラス作家でいうと秋田のガラス界のドンで百獣の王のような存在の小牟禮尊人先生がいて、瀬沼先生は植物とのインターフェースが面白くて用の美のような接点がある。僕も生活工芸の作家さんと付き合いがあるんですけれども、東日本大震災が終わった後に道具と、ものとどのように接していかなければいけないのかということを切実に考えて茶器をつくったり、お茶碗をつくっている作家さんと似たような問題意識を感じたりするんです。瀬沼先生からは。そういう意味では、ガラス作家の中でも井本さんを含めた3人のスタイルは全然違うし、多分、学生を見ても全然違う。このバリエーションというのは非常に大事にしなきゃいけないし、もしかしたら秋田でガラスの文化がこれからつくられていく中でのひとつのダイバーシティというか、いろいろな作家性が育ち得るようなマトリックスになり得るかなと思いますね。