arts center akita

  • facebook
  • twitter
  • youtube
  • アートを楽しむ

ただそこに在るという確かさに、
ふと触覚が交差するように

2019.05.14

素材を使い、熱を使い、身体を使ってつくり続ける作家・井本真紀のガラス作品と言葉の数々で構成した展覧会「触覚の地平」。制作プロセスや作品との向き合い方について語ったギャラリートークの報告(1)です。

私につくるべき何があるのかと考えてみても 特に何もないのだった

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTにて開催された展覧会「触覚の地平」では、素材と身体との関わりから紡ぎ出されたガラス作品と言葉の数々が白いギャラリー空間に浮かび上がりました。

「沸き立つような 燃え上がるような強い衝動は初めからないのだった。ガラスを使い、熱を使い、身体を使ってつくり続けてきたうちに降るともなく降り積もった欠片のようなことごと。ただ私の身体がそれらを記憶しているだけなのだ。その事実以外に信じるべきものが、何ひとつ、私の中にはない。」

そう語る井本は、素材と、そして作品とどのように向き合っているのか。ガラス作家である瀬沼健太郎氏(秋田公立美術大学准教授)を進行役に、人類学者・石倉敏明氏(秋田公立美術大学准教授)をゲストに迎えて行われたギャラリートーク「流動するこころともの〜制作の現場から〜」をレポートします。

流動するこころともの〜制作の現場から〜

アーツセンターあきた この度は、ギャラリートークにたくさんのご参加をいただき、ありがとうございます。井本真紀さんと、ゲストの石倉敏明先生です。「触覚の地平」を企画・構成してくださった瀬沼健太郎先生を進行役にトークを進めたいと思います。よろしくお願いいたします。

瀬沼 今回、井本さんから相談がありまして、企画と構成を手伝わせていただきました。普段はものづくりデザイン専攻で一緒に仕事をしているのですが、その井本さんが普段考えていることなどを石倉先生の目を通して深掘りしていく時間を皆さんと共有したいと思っています。よろしくお願いいたします。石倉先生、井本さんの展示をご覧になってどんな印象を持たれたでしょうか。

左から、秋田公立美術大学ものづくりデザイン専攻准教授の瀬沼健太郎、作家の井本真紀、アーツ&ルーツ専攻准教授の石倉敏明

石倉 今日初めて展覧会を見たんですが、引き込まれてしまって。鳥肌が立つぐらい強いをものを感じて、今日しようと思っていたことができなくなるぐらい、1日中ぼーっとしてしまうような強い展覧会だと感じました。

私は2013年、秋田公立美術大学の立ち上げの時に秋田に来ました。このBIYONG POINTにもいろいろな作家が来て、いろいろな展覧会をして。開学から6年経つので、大学の各専攻や大学院などそれぞれのフォーマットやカラー、文化ができつつある頃だと思います。それをそろそろシャッフルしたり、違うことをやらないといけないなと思っていたのですが、この展覧会を見てすごく新しいビジョンを感じました。

「強いものを感じた」と語る石倉敏明准教授

言葉と美術の接点で何ができるか

井本さんは大学で教育をしたり、学生と一緒にものづくりをする環境にいました。この5年の間に新屋にガラス工房ができて、新しい制作環境にどっぷりと浸かっていて。そういった環境の中での、秋田での集大成としての展覧会なのかなと思います。でもそれを、すごく新鮮に感じたんですね。僕の視点から見ると、言葉とものの関係が今まであまり見たことのないタイプだなと思いました。

そもそも言葉の展示というのは難しくて、特に現代美術の世界では最近ようやくフォーマットが発明されたり、実験されるようになった領域です。もともと詩人や小説家など言葉の専門家が自らの表現として本をつくったり、朗読会をしたりということはあったと思うんですが、ひとつの空間をつくって展示するというのはそんなに歴史があることではなくて。言葉が美術との接点で何ができるのかというのは、アートにおける実験的な最先端の領域でもあると思うんです。

展覧会「触覚の地平」は言葉から始まる

ものを扱うように、言葉という素材を扱う

石倉 詩人の谷川俊太郎さんが展覧会をしたり、「美術手帖」では言葉の特集が組まれたり、アーツ前橋でも萩原朔太郎の詩にインパクトを受けた作家たちが制作して、アーツ前橋と前橋文学館とが連携した展覧会が開かれました。美術館と文学館が共同でひとつの展覧会をするというのはなかなか想像が難しいと思うんですけれど、今、そんなことが起こっている。しかも地域で起こっているというのが面白い。そういう中で、作家さんの言葉というだけではなく、井本さんのひとつの表現として言葉があるというのがとても印象的でした。

大学というところにいると、どうしても言葉が偉そうに振る舞うというか。学生が一生懸命ものづくりをしても、最後は講評という形で言語化していくところで全てが評価されていく。そういう、どうしても大学のアカデミックなフォーマットがあるじゃないですか。その中で僕もいつも悩んでいて、「いや、でも言語化しないとダメなんだよ」と伝えた方がいい場合もあるし、一方で「言葉にできない体験を大事にしたほうがいいよ」と言うときもある。やっぱり言葉って、一概には言えない。

この映像の中で井本さんがおっしゃっているように、言葉というのも素材なんですよね。もの、メディウムとして作品がつくられていくのと同時に、言葉も概念だったり文字そのものだったり素材として扱うことによって、意味を伝えるだけではない、もっと広いところに行けるんだということが見えてくると思うんです。この展覧会はそういう意味では、非常に実験的なことをやっている。でも実は、最初に見た時に壁の文字に気づかなかったんですよね(笑)

瀬沼 皆さん、お気づきになられました?

ギャラリーの白い壁に、井本の手によって書かれた文字が浮かび上がる

石倉 最初、40分ほど展示を見ていたんですが、全然気づかなかったんですよね。先ほどもう一度来てみて、ようやく気付いたんですけれど。よくよく見るといろんな言葉が散りばめられている。言葉とものの関係というのは、井本さんは初期の頃、作品をつくり始めた頃から考えてきたことなんですか?「言葉にしなくては」というのは、いつ頃からなんでしょうか?

言葉にしたことで初めて見えてくる何かがある

井本 私は言葉を使うことは苦手です。よく分からなくて、言葉のことが。それで、これまで全然扱っていなかったんです。大学の修士の時、作品と一緒に提出する研究報告書を何十枚も書く時に指導してくださった先生が、思いとか気持ちではなく自分が実際に手を動かしてやっていることを細かく言語化しなさい、文章化してきなさいと言っていたんです。粘土を捏ねる、とか、それをちぎる、こういう道具を使ってこういう形をつくる、みたいなことを最初から最後まで細かく言語化して、その結果、何ができたのかというところまでを文章化しておいでと言われて。書いて持っていって「はい、やり直し」と言われて、また持っていってまた「はい、やり直し」と言われて、また持っていって何回も何回もそう指導してくださって。

その中で、言葉になったことで初めて見えてくる自分のやっていることといいますか。意識化されていないことが意識の上に登ることもあるし、その逆もあるしということが言葉によってつくられていく何かがあったということ、そこからだったと思います。

石倉 では大学院に入ってから意識的に言葉を使い始めたんですね。井本さんのスタイルとかつくり方や方法論にはひとつの言語があって、それは造形の言語だったりガラスの言語だったりいろいろな形の技術的な言語だと思うんですね。それに対して、もう一段、別のレイヤーにある言葉が入ってくることで、難しい面も出てくると思うんです。自転車に乗ることを意識して乗ると転びそうになったり、どっちの足から歩けばいいのか分からなくなったり、ずっと漢字を見ていると「この字って本当にこういう形だっけ?」みたいな。そういう当たり前の世界がぐらぐらと揺らいでいく経験というのは僕らが言葉の世界、文化の世界にいることと、ものの世界にいることの二重性を持っているから。言葉の世界にいたはずが、ものの世界にいるとなった時にぐらぐらっと地震が起こったように揺らぐことがあると思うんですけれど、井本さんの展覧会は結構それぐらい、当たり前の言葉の世界が揺らいでいくような印象を受けて、詩的言語の豊かさを感じたんです。

日常的な言葉も大事なんだけれども、そのレイヤーを精度高く見ていくと、それぞれが当たり前ではない言葉を持っていると思うんですよね。詩人とか作家さんというのは自分の身体から生まれてくるすごくデリケートな詩的言語というものを大事に育てていて、それを表現まで高めていく。そうするとその人の言語世界は広がっていきますよね。日々、ガラスでものをつくったり木工をしたりすることと非常に似ていると思うんですね。

僕らが論文を書く時だって、何回もプリントアウトして見たりしながら、自分の持っている身体性と文体とかそういうものを練り上げ、まさに素材として言葉をつくっているんですけれどそういう面と物質の世界、ものづくりの世界というのが行ったり来たりする経験を感じました。この展覧会は、井本さんが大学院からやってきたスタイルの集大成になっているような気がします。