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自分と相手の関係性を描く 飯島小雪個展「僕らじゃない」イベントレポート

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで、3月31日(日)まで開催した秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修士課程2年(個展開催時1年)の飯島小雪による個展「僕らじゃない」。3月10日(日)には秋田公立美術大学景観デザイン専攻准教授の井上宗則をゲストに迎え、トークイベントを行いました。

交換日記に綴られるリアルな「ことば」のやりとりから感じ取った相手の姿を肖像画として描いてきた作家・飯島小雪の個展「僕らじゃない」。

▶︎僕でもあなたでもない肖像画 飯島小雪個展「僕らじゃない」

3月10日(日)には、本展作品を中心に飯島と秋田公立美術大学の井上宗則准教授(景観デザイン専攻)が議論するトークイベントが開かれました。
そのトークの様子をお届けします。

トークをする飯島小雪(左)と井上宗則准教授

交換日記を通した相手との関係性を、どう絵に落とすか

飯島:広島の尾道市立大学芸術文化学部美術学科油画コースに在籍していた学部4年生の頃から交換日記を使用した肖像画制作を始めました。現在は秋田公立美術大学大学院修士課程に在籍しており、今回の個展では大学院で制作した作品を含めて展示をしました。

トークイベントのゲストとして、井上宗則先生をお呼びしました。秋田公立美術大学美術学部の景観デザイン専攻の教員をされており、主に都市建築デザインを専門にされてる先生です。建築の視点からみた、肖像画についてのとらえ方などお聞きできればと考えています。

井上:お願いします。

飯島:最初に一つ、みなさんに質問したいことがあります。交換日記をしたことがありますか。井上先生、いかがですか。

井上:僕は、交換日記はしたことないですね。流行っていたけれども、どっちかっていうと女子がやるものと思っていました。男子がやってたら気持ち悪いと思われるような、何だかそんな感じだったと思います。

飯島:小中学生ぐらい?

井上:小学生の頃かな。よく女の子は交換日記をやっていました。机の中に置いてるから、それを勝手に男子が出して見ちゃっていることとかありました。好きな子のこと書いてあって「あいつ、こいつのこと好きなんだ」とか。そういうデリカシーのない時代の思い出というか、僕の交換日記のイメージって残念ながらそういうイメージです。トラブルになりがちなものだというイメージもあります。

飯島:ほかに、今来られてる方で交換日記をされたことがある人いますか。

来場者A:小学校の時に交換日記を持ち掛けられて、ほんの少しだけやりました。小さい頃なんで、それを周りに見せびらかしたら、周りに冷やかされて、自然にやらなくなりました。

来場者B僕も小学校の時に、姉と妹がいたんで、自分も普通に交換日記を買ってもらえました。女子がやることも、ちょっとやるみたいな。やった記憶が、ぼんやりあるっていうぐらいですね。

飯島:他の来場者の方は、交換日記をやったことはないようですね。
私は交換日記を用いた肖像画制作の中で、大人になった時の交換日記についてずっと考えていました。私が小中学生の時に実際やっていた交換日記は、クラスの女子の関係性を考えて話題を選ばなきゃいけないということがすごくめんどくさい感覚があって、たいてい交換日記を止めてた人でした。

それでも、文字でやりとりをすることは人とコミュニケーションすること。直接しゃべるよりもノートの中で書くことの方が自分に合ってるかもと考えたのが、この制作のきっかけです。大人になったからこそできる会話があると思っています。

井上先生は展示をご覧になって、感じたことはありますか。

井上:まず僕、建築が専門なので、絵画は完全な専門外で、基礎的な知識がない状態での感想になります。

交換日記の文章は、対話ではなかなか出てこない、かなりディープな感情が出てくると思います。それがどう作品になるか。飯島さんは肖像画を採用していますが、その受け止め方が非常に難しいなと感じました。肖像画って普通、直接相手の顔を見て描きますよね。それをやらずに、交換日記で相手を想像しながら描くということは、何となくぼんやりしたイメージを絵として定着させるということになるのでしょうか。

でも多分、飯島さんやりたいのはそういうことではないですよね。飯島さんは交換日記を通した相手との関係性そのものを、どう絵に落とし込むか考えていると思います。でも、顔がぼんやりとしか描かれておらず、交換日記のやりとりだから顔を具体的にイメージできずにそういう表現になっている、と思われるかもしれない。そういうすごいベタな理解を誘引させてしまうようなところがあります。関係性を描こうとしてるけれども、その読み取りが結構難しい。

まだこの手法はスタートした段階でいろいろ模索しながらやっていると思いますが、作品を理解するためには、結構いろいろなリテラシーが求められるものなのかなと思って見ていました。

飯島:本当にその通りです。相手を描いた肖像画というよりは、交換日記の文字から絵にする中で、相手の形をなぞりたいと考えています。私とその人が話をしながら、お互いに相手をなぞり、探りながらやってる状態が、本当は絵だけで伝わるっていうのが理想です。

でも、平面だけで伝えることは、今の時点でも多分できていません。
交換日記という特殊形態で、しかも郵送で行うやりとりがあまりにも複雑過ぎるからこそ、今回の展示のような絵画と郵便と、それに通ずる、交換日記の内容から抽出したことばという作品の並びになってるなと感じています。それが良いのか悪いのかは全く自分の中でも分かってなくて、いろいろな話を聞きながら、自分の方向性を固めていけたらなって思っています。

井上:顔がしっかり描かれた誰もが肖像画とわかる絵を提示して、でも実はそれは交換日記を通した想像で描かれたものです、というネタバラシをして驚かせるという方法もあったかと思います。でもそういった安易な方法ではなく、関係性そのものを肖像画というジャンルの中に落とし込めるのかっていうのは、非常に難しいテーマだなと思いました。

肖像画で〈あなた〉を描く
非常にチャレンジングなこと

井上:事前に飯島さんと話した時に、マルティン・ブーバーという哲学者の話をしました。ブーバーが言ったことに〈我〉と〈汝〉があります。要は〈私〉と〈あなた〉。世界には二つの根源語があって、〈私〉と〈あなた〉っていうのと、〈私〉と〈それ〉っていう関係があって。

今、僕と飯島さんは二人で対話していますが、この関係は〈私〉と〈あなた〉ですよね。あなたと言ってる時点で、常に私は想定されています。私がいてあなたがいて、後から関係が生まれるのじゃなくて、関係を前提とした世界がある。

僕が研究をしている建築家がブーバーをよく参照してたので、飯島さんの話を聞きながらブーバーの言葉を思い浮かべました。

その建築家がアルド・ファン・アイクです。ある時代に、空間から場所へ、時間から場合へという転換を主張しました。すごく雑に言うと、空間はX、Y、Zの座標で表現できる。時間もきっちり決まっている。それらに人が関わることによって、空間は場所になり、時間が場合(occasion)になるというイメージです。

飯島さんがやろうとしていることは、肖像画として人を描くのではなくて、〈私〉と〈あなた〉という関係性における、〈あなた〉の肖像画を描けるのか、ということなのかなと思いました。

ブーバーは、芸術作品は鑑賞者にとっては永遠の〈あなた〉になるということを言ったりします。鑑賞者を入れると、結構簡単に〈私〉と〈あなた〉の関係をつくれるけど、飯島さんは表現者である〈私〉が、〈あなた〉をどう表現するのかっていうことに取り組んでいる。

僕は、肖像画の歴史をよく知らないけど、肖像画で〈あなた〉を描こうとした人がいないとしたら、それは非常にチャレンジングなこと。 面白いのは「対話」という関係性の世界を明確に規定していることです。交換日記というすごい限定的なもので対話をしている。だからこそ〈あなた〉というものをなんとか表現することができるのかもしれない。そこにチャレンジしてるのかなと感じました。僕の研究に強引に引き寄せると、そういう試みなのかなと思い、見ていました。

飯島:肖像画自体、その人がどう見られたいかっていうのを描かせることが元になっています。肖像画は自分の権力の象徴として、周囲の人間にお金がどれだけあるのか、どれだけ強い立場にいるのかを知らしめるための象徴でした。

肖像画が日本に知れ渡ったタイミングは、明治天皇が天皇という象徴だと全国の人たちに知らしめる手段として、肖像画を描かせたのが始まりです。そこから日本の近代絵画、日本の油彩画が表現へと展開した起点になるのが、岸田劉生だと私は思っています。

岸田劉生の『麗子像』。自分の娘を描きながら、娘のことを描いてるわけではなくて、自分が娘に対して感じたことをなぞらえる。肖像画の中で、ある種の油画としての表現方法の起点になっている気がします。

でも私は、相手に自分の表現を押し付けたいとは思ってはいません。
自分にしか描けない相手を描いています。交換日記を交わした相手のことをなぞるけど、ちょっとずれてるみたいな。すごい奇妙な感じですが、ずれてるところや重なってるところがある。私が描いているのは、結局、誰なのかよく分からない何かができる。けど、関係性はきちんと築けているから、あなたであることは確か。
こういったことを、最近やっと自覚しながら描いています。

井上:肖像画はかなり意識的に選んでるジャンルなのかなと感じる一方で、飯島さんの絵を見ると、オレンジの縁取りっていうか、輪郭がありますね。人の形を示すのは、実はそこぐらいしかなくて。肖像画で重要となる目線とか表情は、あんまり使っていませんよね。輪郭にこだわることには何かあるんですか。

飯島:交換日記という文章のやりとり、さらには郵送でやり取りしています。相手の環境や状況は知らずに、相手もこっちの環境や状況は分からずにやっています。
対話している時というのは、周囲にいろんな人がいて、この人たちがいるからこの話題を選ばなきゃいけないことがあります。
交換日記は、周りの影響が全部遮断されてる状態だと私は認識しています。ノート一冊だけの環境。しかも文字だけ。だからこそ、その人の周りの影響だったり環境などの背景をなるべく描かないようにしています。

一番分かりやすいのは、学校の学生たち30人プラス担任の先生とのやりとりからの作品です。その人たちが通ってる学校を私は知らないんですよ。鹿児島のある学校ということしか知らなくて、どういう状況の学校なのかっていうのは知りません。
私は広島の学校にしか通ってなく、転校もしていません。自分の学校しか知らないですし、他の公立中学、公立高校とかも全く分からない状態でやってるからこそ、その鹿児島の子と向き合った時、その人の輪郭みたいなものしか分からないことを人の輪郭に込めて作っています。

他の作品も輪郭はしっかり描くようにしていて。ちょっとぼやけてたりするのもあるんですけど、やりとりが重なれば重なるほど見えなくなるということは、最近感じ始めています。徐々に絵が変化するのも面白みになるのかなと最近は思います。

井上:交換日記からアナロジー(類推)として輪郭が出てきてるんですね。そこは飯島さんの対象との距離の取り方と考えると納得できるとこもあります。

また、展示を見て新鮮な発見がありました。当たり前だけど、郵送のやりとりに140円かかるじゃないですか。今はメールとかで無料でやりとりができる中で、常に140円の価値を払いながらやるということは作品に影響あると思いますがどうでしょうか。

飯島:140円を払うかどうかを相手に任せるのは怖いなと思い、私は切手を同封しています。なぜなら突然、嫌になられたら困るなと考えていて。ただ、封筒はその人が何を選ぶのかは結構その人自身に関わってくることだなと思ったので、封筒だけ選んでもらい、送り返す時期も完全に一切委ねますっていう感じです。
その分、私もすぐは返さないことのほうが多いです。1カ月に1回返される、ひどい人だったら、半年間全然返ってこずに何ページも送られて返ってくるということもありました。
お金がかかると、大人になればなるほどシビアな気がしてきて、相手に支払いを任せるのはやめて、なるべくフラットになるようにはしてます。

井上:飯島さんのほうから、もうやめたいなっていうのはあるんですか。

飯島:今やってる人との間ではありません。でも、今回の個展で、展示室の奥にある交換日記が読めるスペースに置いてる人はもうやめてます。基本的には絵を描いたら終わりますと伝えていて、期限付きでお願いをしてる感じです。

井上:ただ、回答を期待して投げ掛けるわけだけど、突然遮断されるっていうのもあるでしょう。対話は予定調和のものではなくて、常に不確定要素をはらんでるわけだから。

向こうからいきなり終わってしまった時に、飯島さんが描く絵はどうなるんだろうかっていうのは気になってしまいます。

汚い字であることで、その人のことばを書いてもらえる

井上:自分の字を展示して見られることに、飯島さんは全然、抵抗ないのですか?

飯島:私の書いた文字を見られることは、本当はめちゃくちゃ嫌なんです。けれど、学部生の時に先輩とこういう制作をしてますっていう話をした際、相手を描くということは相手をネタにしているという感覚を受ける人がいるんじゃないかっていう話をされたことがあって。

ただ、語弊の生まれる言い方かもしれないんですけど、やりとり自体の面白さは確かにあります。でも、交換日記の相手を変に軽視する形で作品にしたいと思ってるわけでは全くない。だからこそ、変に相手のことばだけを作品として出すのは、すごく不公平だなと思っています。自分の直筆や生のことばも公開することで、相手の背負う責任や恥ずかしさも同様に背負う、むしろ、作家として表に出ているからこそ、全部担うつもりでいます。でも、隠せるものならば全部、破りたいぐらいですね。

井上:自分の字をいつぐらいから恥ずかしいと思うようになるのかな。人に見られる時、ちょっと丁寧に、格好つけて書くわけだけど、飯島さん絶妙に字が下手じゃないですか。

飯島:そうなんですよ。

井上でも、絵は一般の人よりうまい。美大に進んで、自分の絵を人に見てほしくてやってきた中で、あえて、そんなに見られたくないであろう直筆の文字を展示している。それを含めて対話、関係性というものを、どうこの空間で表現するのか、いろいろ試されてるのかなと感じました。

飯島と交わした交換日記なども展示された

飯島:小学校1年生くらいの時に「おまえの字、男子みたいに汚い」ということを言われたことが何度かありました。でも、きれいには書けなくて、恥ずかしいって中学校ぐらいまでは思ってたんですけど、急に開き直って、これはアイデンティティーだとか思い始めて。そこから、だいぶ恥ずかしさはなくなったんです。

自分が字を汚く書くことによって、交換日記で相手がのびのびと書くようになるんです。実は最初に始めた人の最初の1冊目はめちゃくちゃきれいに書いていて。そしたら、その人もすごいちっちゃい字で、すごい丁寧に書いてきてくれて、すごい面白くなくて。その窮屈さに、「ん?」と疑問に思い始めました。
だんだん忙しくなって、どんどん字が汚くなってったら、その人もどんどん汚くなってって。お互い、何のやりとりも読めないぐらい汚くなった交換日記が1冊あります。何をお互い言ってるのかわからないくらい。多分、伝えたいけど、完璧に伝えるつもりはなくて。

対面して話をするコミュニケーションって、相手に伝わるように伝えようとか、この人にはこのことばを選ぼうというのがあります。でも、交換日記で殴り書きをして、優しさや丁寧さがなくなることによって、その人自身のことばが出てくるような気がしています。
わざと殴り書くようにしたら、本当にずっと全部、汚くて、あんまり見たくはない。見たくもないし、見てほしくもあんまりないんですけどね。でも、やるには仕方ないことだと思って、割り切ってます。

井上:それは、肖像画に影響はあるんですか。

飯島:交換日記の中でも、その人が繰り返し言うことばがあるんですよ。それこそ、作品に抽出してるものとかは、本当にそうです。
(飾られている作品を指差して)こっちは文通から描いた肖像画で、こっちは交換日記で描いた肖像画。同じ人なんですけど、文通でやってる時はフラットでありたいっていう精神的な話を割と言っていたのですが、交換日記になった時、ちょっとあったかくなって「おかえり」とか「ただいま」とか言われる、言われたい、言いたいみたいな話に変わっていったり。
その隣の作品の人も、人と並んで歩けないという話や、自分が幸せであることをどう考えてるのかという話をしてくれました。
その話題を振ってはないはずなのに返ってくるみたいな。モノローグ的に返答されるというのは、多分その人の中でずっと繰り返し日常的に考えてるけれども、口からは出ないようにしてるものが書いてたら急に出てくるのかなと思って。それこそ殴り書いているからこそ、ことばを選んでいないから出てるんだと感じていて、影響は出てる気がします。

交換日記から描いた肖像画(右)と文通から描いた肖像画(左)

井上:そうやって生の関係が絵に出てくるんですね。でも飯島さんの相手から話を引き出そうとするテクニックはどんどん上がるじゃないですか。最初の頃は本当に対話のような形で私とあなたの関係があったけど、だんだん相手から何か引き出すための対話みたいなことが起きてくるのではないですか。

相手から欲しい情報をどう引っ張ってこようかという形に、無意識的にもなっていくんじゃないのかなと思ったりもしますが、その辺りはどうですか。

飯島:それは、本当に気を付けるようにしています。私が一方的に搾取する形にはならないように。
交換日記とかは割とセンシティブというか、自分の中で起きてる話であったり、日常の中で起きた話であったりというのを、ことばとして書いてくれるので、そこには誠心誠意向かわなければいけないと思っています。

私も日常的に起きた、すごく嫌だったこと、すごく悲しいこと、楽しかったことなど、気持ち的にセンシティブなところの距離感・温度感は、相手と同じにするようにはしています。なので、割と話題の選択は合わせていて、人生観を語ってくれる方がいたら、こっちも自分の人生観を一緒に擦り合わせて、同じ温度感で話すようにしていて。

一方で、家族の話であったり、恋人の話であったりという話題を抽出する人がいれば、父である、母であるだとか、そういう家族の話とかも、合わせてするようにしていたりはします。あんまり個人名として、他の人の名前を出さないようにはしてほしいって話はしていますが。

井上:文通や交換日記は普通の対話と違って、適当に相槌を入れていいかげんにやり過ごすことはしづらい。さっき「誠心誠意」と言ったけども、やりとりを一つ一つするためのツールとして使ってるって感じですね

飯島:でも、相手の独り語りみたいな、モノローグ的なことに対し、全てに返答するという形にはしていません。対面していないからこそ、「そうね」みたいな相槌を打つ手間は全くなくなって、同じ温度感で話せることを一生してるのが交換日記というイメージ。
なので、相手に合わせての話題は選ぶけど、相手に合わせての共感であったり、大丈夫だよみたいな励ますようなことは、あんまり言わないようにしてます。全部を無視するわけではないけれども、ただ、私はこう思うっていう話は、なるべく相手につなげるようには意識的にしてます。

作者・鑑賞者はどこに立つのか

井上:飯島さんが描いた肖像画は正面を向いていますね。なぜその選択をしたんですか?

飯島:私、普段は眼鏡を掛けて人の顔が見えるようにしてるんですけど、対面で話をしてる時は基本的に眼鏡を掛けないようにしていて。いろんなことを、あんまり見たくないし、見られているっていう自覚もしたくないっていうのがあって。
ただ、相手のほうを向くのは結構好きで、見てるけど見えてないみたいな感覚みたいなのがすごく好きです。なので、交換日記でのやりとりっていうのは完全にその人と私しかいない。本当に真っ白な空間で、その人と私しかいなくて、その中でやりとりがずっと行われてる。表面上というか、交換日記の中での表面でしか、その人を感じることができないと思ってるんで、立体的には見えないんですよね。

相手の顔があって、目があって、どのくらい、くぼんでるとか、影であったりだとか、口が、顔が、輪郭が、面長なのか、丸顔なのかみたいな、ちっちゃい差はあるんですけど、その人がどんな服を着ているとか、どんな色が好きだとかっていうのは分からない。
色とかも聞けば分かりますけど、女の子であればひらひらしてるものが好きなのかとかネイルが好きとか、男の人でも化粧する人なのか、しない人なのかっていうのも全く分からない状態。
変に、こういう骨格、体形の人であるっていうことを、区別や差別化しないような状態がいいなと思い、最初から、割と意識しています。

井上:交換日記において飯島さんと相手の関係が正対してるっていうのが、そのまま表現されてるわけですね。

一方で鑑賞者は、当たり前だけど飯島さんじゃない。どこか突き放されたような距離を感じるのはそこなのかな。

絵画って作者と同じ目線で作品をみることができるわけだけど、この肖像画は、飯島さんが見たものではなく、相手との関係によって描かれている。でも、僕らがこの肖像画の前に立っても、飯島さんが行ってきたやりとりは当然構築できてないわけで、何を見ているのかわからないという不思議な感覚が生まれるというか。 飯島さんと相手との関係で作った作品であって、僕らは、それを外からしか眺めることができない。でも、外から眺めることで、初めて〈私〉と〈あなた〉という構造を知ることができるというのは、面白い試みだなと思いました。

飯島:いつも悩むのが、自分がどこまで展示空間に存在するかどうか。どこまでいたほうがいいのか、作者の存在自体を消すべきなのかということは考えていて。私と交換日記の相手のやりとりからできているので、私自体は完全には消し去ることはできなくて、相手は絶対に消してはいけない人。
そうなった時に、鑑賞者はどこに立たせるか、全く別に立たせるのか、それとも私の視点にするべきなのかということは、最近の課題になってきてはいます。

だからこそ、肖像画を見る鑑賞スペースと、ことばを読むスペースっていうのを分けました。奥の読むスペースでは、自分が普段どういうふうに、どんなペンを使って、どんな感じで書いているのかが分かるけど、肖像画の鑑賞スペースには全く自分の存在感がないように。そんな考えがちょっとあって、展示スペースを分けているというか、まだ、ずっとぐるぐるしている感じですね。

井上:鑑賞者っていうのは大きな問題だと思いますよね。作者と対象者の関係を見せるとなった時に、鑑賞者はどこに立つのか、どこで立つとそれが見られるかっていうのは確かに難しい問題だなと思いました。

飯島:どう思いますか。

井上:専門ではないですが、鑑賞者を絵画作品と結びつける試みはいろいろやられてますよね。肖像画で目線をあえて画面外にそらして鑑賞者と空間を共有するような、あるいは、有名なベラスケスの『ラス・メニーナス』のように鏡を使うことで空間を捻じ曲げるような。
肖像画にはいろんなテクニックはあったと思うけど、飯島さんは絵画空間と鑑賞空間を結ぶという手段を拒否して、輪郭だけ抽出することで僕らに絵画の正面に立つことを強制する状態をつくりだして、でも最後に突き放す。その構造が、〈私〉と〈あなた〉の関係の前に鑑賞者を立たせるということなのかなと思います。

ただ、こうやって飯島さんと話をして、そうかなって考えられるけれど、この展示空間に身を置いただけで、そこまで入っていけるかっていうのはまた別のこと。それを説明すればいいのかということでもありません。

飯島:そうなんですよね。

井上:どこまで説明したらいいのか非常に難しい。

飯島:ハンドアウトを持ってる方は分かるかもしれません。自分が相手にどう思ったかというのを、ハンドアウトとして持って帰れるようにしています。
本当は壁に直接書こうと思ってたんですけど、相手が書いた私が選んだことばがあって、相手を描いている絵がある中で、自分のことばがあるのはすごく邪魔になるのかなと考えて。

でも先生や鑑賞者の人と話した時に、どの視点に立てばいいのか分からないし、どういうふうに相手を見てるのかが分からないっていうのを、割と言われることがあって。それで、ハンドアウトに盛り込んではみたんですけど、これが正解なのかもいまだに分かってないです。

井上:まさしく、それが話題になりましたね。
関係を描くって難しい。関係を描くことは難しいんだから、それを見ることもきっと難しくなる。だから、どこに立っていいか分かんない、作品をどう捉えたらいいか分からないっていうのは、実は、うまくいってる証拠なのかもしれない。

飯島:ありがとうございます。でも、それが自分の中で言い切れる確信が、まだないのが問題です。

井上:今回展示してみて、自分の中ではどうですか。

飯島:自分の中では一番、今までの中では整理できた状態な気はしています。
今できる情報、持ってる情報は全部、提示した上で、なるべく整理はしたつもりではいます。ただ、それが、鑑賞者や専門の人たちから見た時に、どういう批評のされ方というか、どういう受け取り方をされてるのかを、ちゃんと全部回収しないと、今回のを振り返って見ることはできないだろうなっていうのは思っています。

個を描く、集団を描く

井上:個人を描く場合と集団を描く場合では、交換日記でのやりとりに違いはありますか。

飯島:集団でも最初は個々でのやりとりで相手を描くみたいなことを、ずっとやろうとしていて。
たまたま、この集団で絵を描くことになった時、30人がばあっといる状態を描こうとし、自分の中でのクラス像みたいなのを自分の過去から引き出して描くようにしたんですよ。
ドローイングの最初は、高校生の時のクラス写真を元にして、その相手の学校のクラスの人たちのキャラクター別にして並び替えをしました。この人は、この感じのキャラクターに似てるみたいな形で。それを繰り返した結果が、この集合写真の肖像画になっていて。
一回、誰かに置き換えるみたいなのを初めて取り入れたのが、この作品です。

自分の中では、結構しっくりきたというか。自分の中で、この人ってこの人に似てるよねみたいな、あるじゃないですか。有名人だったら、この女優さんに似てるみたいな。
そんな感じの、自分の中で、その人だけどその人じゃないものを描こうとした時に、自分の中で、何かに置き換えをした上で、その人を描く。ちゃんと、違うフィルターを通すっていうことを理解した感じではあります。

もしかしたら、このまま相手を集団で描く時と同じやり方をしていくのか、違うと思って切り捨てるのかは、今後の感じ次第にはなる気はするんですけど。

井上:制服を記号的に使っていますよね。個人を描くときはそういう記号的なものは一切なかったけど、クラス写真であることを示すため、あるいは、高校生というのを示すために制服を使っている。

僕、このやりとり、とても面白いと思うんですよ。30人とやりとりするのは疲れるなって思うけれども、何かすごいものが生まれそうな。だから、ブレザーで、ネクタイという記号的なものを持ち込むことの意味については、今後もっと考えてもいいのかなと、僕は思うんですよね。

飯島:手紙と一緒に、プロフ帳みたいな、ちょっとふざけたやつがこの展示室入る前にあるんですけど、プロフ帳は相手と文通を初めてやりとりしますってなった時に、高校生がどういう人なのかっていうのを記号的に分かるようにしようと思ったからでした。プロフ帳に似顔絵を描く場所を用意したら、制服の細密まで書いてくれる人もいたり。

高校生たちは、文通を授業の中で書いていたということもあり、自分がどこの高校の何年何組に通ってる生徒なんだっていうのが意識的に起きていた状態な気はしています。ちゃんとそこは回収したいと思ったのもあって、やりました。
もうちょっと個別的に表現を描いたほうがいいんじゃないかと言われると難しいところですね。

井上:30人との交換日記というかなり特殊なやりとりが、絵にどう落とし込まれていくのか。この方向でしばらく続けていくと思うので、展開が非常に楽しみです。

鹿児島県の高校とやりとりした際の依頼文などの文書やプロフ帳(右から1番目)。

会場からは質問もありました。

来場者C:交換日記から相手を想像して、色の調子とかっていうのは、どういう意識で描いているのでしょうか?
人それぞれで、色彩も微妙に細かかったり、いろいろあるので知りたいです。割とイメージで、感覚で描くということなんですか。

飯島:割と、感覚でやっています。
最初はあなたは何色が好きですかと聞くようにはしてたんですけど、何人か重ねていくうちに、聞かなくなりました。この人は暖色系だなとか、寒色系だなみたいに感じて。ずっと油絵具を使ってるからこそなのかなとは思うんですけれども。
何となくの色はありながら、相手がずっと同じ話をするタイプの人であったり、言ってることが割ところころ変わったり、環境によってどんどん変化してたりいうのも、話の内容でも感じることは結構あって。
それに合わせて、Aさんは何色使用して、メインが1色あって、サブの色が何色にするという感じで、相手に合わせて、なるべく変えるようには意識的にはしてはいます。色の選び方は、私が今まで使ってきた色の中で使いやすいとかも含めて、選ばれてる気がします。

来場者Cありがとうございます。結構、絵の力、強いなって思いました。色の雰囲気がスイスの画家のミリアム・カーンを思い出しました。独特の、絵の力が強いイメージがあって。だから、こういう交換日記のやり取りがあったことをお聞きして、交換日記からのイメージをこういう絵にしたって驚きが正直あります。ありがとうございます。

飯島:ありがとうございました。

作品撮影:草彅裕

Profile 作家プロフィール

秋田公立美術大学景観デザイン専攻准教授

井上宗則 Munenori Inoue

1980年鹿児島県生まれ。九州芸術工科大学卒業。九州大学大学院博士前期課程修了。東北大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。東北大学助教、秋田公立美術大学助教を経て、2021年より准教授。専門は建築・歴史意匠。民間企業において携わった東日本大震災の復興計画等の実務経験を踏まえ、近年は国内外の集落デザインに関する研究を行っている。また、参加型のデザイン手法の在り方を模索しており、サイン、建築、公園、散策路等の様々な実践的な活動を行っている。(秋田公立美術大学

Profile 作家プロフィール

飯島小雪 Iijima Koyuki

2000年広島生まれ。秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修士課程在籍。尾道市立大学芸術文化学部美術学科在学中に油彩でのポートレート制作を開始。現在は他者のポートレートの取材ツールとして交換日記を使用した制作をしている。
<主な展覧会>
2024年1月 秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修士課程1年研究経過展(秋田公立美術大学サテライトセンター/秋田)
2023年11月 「ー覗くー」(秋田公立美術大学サテライトセンター/秋田) 
2023年2月 「尾道市立大学卒業作品展」(尾道市立美術館/ 広島)
2022年9月 「ACT アート大賞展 優秀賞グループ展 後半」(The Art complex Center of Tokyo/ 東京) 
2022年8月 「gu- Small Art Festival」(松翠園大広間/ 広島/ ディレクション、キュレーション、作家)

https://lit.link/lightsnow30

Information

飯島小雪個展「僕らじゃない」

飯島小雪 個展「僕らじゃない」DM(PDF)
■会期:2024年3月8日(金)〜2024年3月31日(日)
    入場無料、会期中無休
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
   (秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■作家在廊日:3月21日(木)11:00-15:00、 3月27日(水)13:00-16:00
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた

■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137  E-mail bp@artscenter-akita.jp

※2023年度秋田公立美術大学「ビヨンセレクション」採択企画

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた

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