芸術作品であり、玩具でもある
安村は作品制作に関する10の条件を提起し[i]、その第1項において芸術であるとともに玩具でもある自らの作品を「おもちゃ作品」と宣言する。そして、本展出展作はすべて第3項の「鑑賞者は作品に触れてあそぶことができる」という条件を満たすものだ。
多様な形式の展覧会が実現されるようになったとはいえ、展覧会では作品に触れることはできないか、触れられても一部の作品に限られることがほとんどだ。美術は視覚芸術(=visual arts)と言われるように、目で見ることが鑑賞や体験の前提とされがちだ。また、触れられないことは、作品の保護だけでなく、権威付けや価値付けにもつながる。歩きはじめたばかりの子供を連れて美術館を訪れると、子供が作品に悪さをしないように注視する眼差しが刺さってきたり、少し大きな声をあげると舌打ちをする人がいたり、楽しく美術鑑賞するはずが周りの様子を気にしながらプレッシャーのなかで展示や作品を見るということが度々ある。美術作品はありがたく高尚なもので静かに鑑賞すべきという意識が植え付けられている人が多いのかもしれないが、それは美術の敷居を高くし権威づけることはあっても、多くの人が享受できる開かれた状態からは隔てられている。
そういう状況に対して、やわらかくしなやかに、しかしながら明確に疑義を呈し、美術を拡張し鑑賞体験のより開かれた豊かなあり方を本展は提示する。美術は愛好家だけのものではなく、誰もがアクセス可能で、幅広い人が楽しんで然るべきという態度を安村は本展を通じて明確に表明している。実際、この展覧会にはたくさんの子供たちが訪れ、楽しそうに作品で遊んでいた。
不器用な手つき
安村の作品はいわゆる精度の高い工芸品とは正反対の、作者の手の痕跡が残り若干の荒さや不器用ささえ感じさせる、どこか無骨で愛らしいものだ。美術作品というと高い技術を持った一握りの天才の手技が凝集されたものと考える人も多いだろうが、安村の作品は素人の自分でも作れるのではと思わせる緩さがある。ただし、実際には細部まで丁寧につくられており、誰もが同じように作れるわけではない。
安村は、おもちゃ作品はあくまでプロトタイプであり(第5項)、その制作は実験である(第6項)と述べる。これを取り違え、芸術家の技芸の結晶としての作品や、あるいは精度高く規格化され量産可能な工芸的プロダクトとしてのおもちゃを求めてしまうと、この作品の可能性や価値を見誤ってしまう。「美はただ乱調にある。(中略)真はただ乱調にある。」[ii]と述べたのはアナキストの大杉栄であるが、安村のおもちゃ作品は乱調とまでは言わないが、歪みを肯定し、すき(=あそび)があり、画一化に抗うものだ。
分解⇆再構築のかたち
ところで安村にとって、偶然の出会いは重要だ。似たような姿形の6つのピースで構成される《3色迷路》は、実はそのひとつに原型がある。安村自身が作品の条件において「作品は内部に明かされ得ない秘密を持つ。」(第9項)と明記しているように、原型の存在については明言されていない。それは作品を体験し遊ぶには不可欠な情報ではないからだ。私はこの作品の造形根拠に興味をもち、安村に話を聞いたことでこの明かされ得ない秘密をたまたま知った。箱型の6つのうち右端に置かれたピースの底面は、安村が街中で拾った合板の切れ端をそのまま利用したものだという。その板には穴があいていて、その穴に球をはめ込む迷路作品を思いついたそうだ。拾った不定形の合板のかたちを真似て、5枚の板を切り出し、箱をつくり、同じような位置に穴を穿つ。迷路の構成はピースごとに少しずつ異なる。ただ、拾った合板を用いた1点がオリジナルで、それ以外の5点が複製というわけではなく、6つは基本的に等価の存在だ。使い古された表現ではあるが、全てに独自の「アウラ」がある。「まねぶ」ということばがあるように、真似ることは学びと遊びの基本だ。安村は「作品の素材・色・形・行為は、分解⇆ 再構築の運動性を生み出す。」(第8項)と述べるように、真似ることから造形しつつも単純な複製とはならないように要素を抽出し、再構築していく。
もうひとつ《デモクラシー・リバーシ》という作品に着目したい。これは2018年に制作された比較的初期のおもちゃ作品だ。オセロをベースとしたボードゲームで、オセロと異なるのは白対黒ではなく白対七色となっていることだ。マジョリティの白が四方の角を抑えた圧倒的優位な状態から始まるこのゲームでは、マイノリティである七色は一枚ずつでも全色が残れば勝ちとなり、単純な多数決や数の大小を競うものではない。このゲームは現実社会での経験がオーバーラップする。七色側でプレイをしたのだが、どんどん自分のコマが白へと変えられていき、選挙の結果を見るたびに自分の一票の力のなさと世の変わらなさに小さな絶望と恐怖を覚えたことが重なった。ただ、一人でも生き残れば勝ちという少数者の生存そのものが認められる設定には、細々とでも生き延びることで現実社会を変革していけるのではないかという小さな希望を抱かせる側面もある。また、マジョリティとマイノリティの関係はいつでもひっくり返る可能性があることを実感させる構造は見事だ。まさに本作は、人間の「身体」「居場所」「社会」にはたらきかけるものだ。(第4項)
抵抗の表現としての「ずるずる構築体」
安村はこれら自作品の制作法を「ずるずる構築体」と呼ぶ。(第10項)「ずるずる」は、ものが引きずられたり滑り落ちたりする様や、持ちこたえられなくて崩れる様、あるいはしまりのない様子や、けじめやきまりをつけないで好ましくない状態が続く様子をあらわす。どちらかというとネガティブな意味に捉えられがちな表現だろう。しまりがなく、滑り落ち、崩れかかるような様子を、あえて構築するという矛盾を孕んだ態度が「ずるずる構築体」だ。なんと複雑で、まわりくどいのだろう。世の中の多くは、ずるずるの逆を目指すことがよしとされる。明確な目標を立て、崩れ落ちないように安定させ、摩擦を起こさず滑らかに、合理的で明快であろうとする。すばやく効率よく最適解を見出すことで、無駄をなくす。それは白に覆われたつまらない世界へと向かう運動を加速させる。ずるずる状態を敢えて構築することは、そんな世の中への抵抗の表現なのかもしれない。
態度の表明
展示室外側の壁面に並べられた《小さな家》という端材を組み合わせて即興的につくった多数の小さな家のフィギュアは、ずるずる構築体という考え方を象徴する作品のように思われる。2021年から続けているシリーズで、ブリコラージュにより家型が成り立っている。モダニズムが目指した合理性とは真逆の、バラバラで不定形な部材が集合することでギリギリ家らしい空間を留めた、ひとつひとつ形や構造が異なる個別性を備えた家たちだ。安村の作品全体に通底するのは、業者や職人に発注することなく全て自らの手で「手近な素材や出来事をもとに」(第2項)つくりあげることだ。DIYにこだわるとか、他者を信頼できないというような理由ではなく、おそらく与えられる玩具でただあそぶのではなく「あそびをつくる」ことを重視するために、安村は自らの手で作り出すことを大切にするのだろう。あそびには「余白」や「ゆとり」という意味もあり、おもちゃ作品を通じて人が自律して思考し行動するための余白を生み出すことへの意識も強いのではないだろうか。このような態度は、近現代が築いてきた価値観にぬるりと反旗を翻すもので、ずるずるとした遊びを通じて異議を申し立てるアナーキーな態度表明である。デモのようなわかりやすい政治的意思表示ではないかもしれないが、安村は作品を通じてユーモアをもって人の思考や行動に影響を与えるある種の政治的な直接行動を実践しているのだ。
[i] 展覧会場に設置された10項目の「作品制作の条件」を参照した。また、「影響を受けたもの」9点も同時に掲出されていた。
[ii] 大杉栄「生の拡充」『大杉栄全集 第二巻』現代思潮社、1964年、p.34
作品制作の条件
自作品の制作条件を以下に記す。今後、この条件は付け加えられたり、減ったりする。もしくは、まるっきり変わるかもしれない。
①「おもちゃ作品」=玩具であると同時に、芸術作品である。
②手近な素材や出来事をもとに作られる。
③鑑賞者は作品に触れてあそぶことができる。
④人間の「身体」「居場所」「社会」にはたらきかける。
⑤作品はプロトタイプである。
⑥制作は実験である。
⑦生み出された作品は、あそびの空間の網の目に配置される。
⑧作品の素材・色・形・行為は、分解⇆再構築の運動性を生み出す。
⑨作品は内部に明かされ得ない秘密を持つ。
⑩自作品の制作方法を、仮に「ずるずる構築体」と呼ぶ。
Profile 執筆者プロフィール
Information
秋田公立美術大学卒業生シリーズVol.12
安村卓士個展「ずるずる構築体(展覧会)」
安村卓士個展「ずるずる構築体(展覧会)」(PDF)
安村卓士個展「ずるずる構築体(展覧会)」会場MAP(PDF)
■会期:204年3月8日(金)〜2024年3月31日(日)
入場無料、会期中無休
■会場:秋田公立美術大学サテライトセンター
(秋田市中通2丁目8-1 フォンテAKITA6F)
■時間:10:00〜18:50
■主催:秋田公立美術大学
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
https://www.artscenter-akita.jp/archives/48610
■お問い合わせ:
秋田公立美術大学サテライトセンター(NPO法人アーツセンターあきた)
TEL.018-893-6128 E-mail info@artscenter-akita.jp
撮影:越後谷洋徳