さる7月、2週間に渡り開催した、1/1000油谷コレクションの分類整理活動。
横手市浅舞の油谷満夫さんのご実家の片隅で埃をかぶっていたたくさんのモノたちを、一つひとつ埃を払い磨いているうち、まるでモノが目覚めて語り出すかのようにさまざまなことがわかってきます。
モノの由来を知ったり、当時の生活を窺い知るという面白さ、
モノを媒介として人のつながりが生まれてゆく不思議さ。
そんな出来事が、期間中いくつもありました。そのエピソードのいくつかをご紹介します。
布切れをつなぎ合わせて現れたのは
発見された時はなぜか切り刻まれていた状態だったのですが、アイロンをかけ繋ぎ合わせてみたら、船名「幸由丸」、そして大漁旗の贈り主の土崎・最八商店の名が判りました。すると、土崎在住のボランティアスタッフ・加賀谷満里子さんがすぐにご連絡をとってくださり、最八商店のご長女の柳原智子さんが旗を見にお運びくださいました。
加賀谷さんが、そのときに聞いたお話を書き留めておいてくださいました。
最八商店は、現在は酒屋ですが、昔は魚屋だったそうです。店も現在の店舗より国道沿いで浜に近かったそう。大漁旗に関して一番記憶がありそうなお母様に聞いてみたそうですが、残念ながら記憶がないそうです。どういう船でどのようにして贈ることになったのかも、残念ながら全くわかりません。
しかし、柳原さんが小さい頃にお祖父様、大叔母様、お父様から聞いた記憶を辿ってくれたお話しに興味深いことがありました。
魚屋だった頃は、浜にニシン船が入ると、百円札の束を風呂敷に包んで、浜に買い付けに走ったそうです。港に入ってくるニシン船は一番になると、高値が付くため、競って入港したそうです。そのお話しから推測すると、買い付けた船の名称が「幸由丸」だったのではないかとおっしゃっていました。
年代はわかりませんが、柳原さんのお祖父様のお話しらしいです。
加賀谷さんのメモ
伝聞のため年代が定かでないとのことで、大漁旗との由来がニシン漁と直接つながるものかはもう少し調べてみなければわかりませんが、それにしても秋田港でニシンがあがっていたなんて!当時の様子をもっと知りたい、調べてみたいと思いました。
約70年前の写真がよみがえる
写真や、現像にまつわる古い機材などもいろいろ出てきた中に、古い写真乾板を発見。
たまたま別件で来館された写真愛好家・木村正樹さんが会場に立ち寄られた折に「よかったら現像しましょうか」と申し出てくださいました。
数日後、現像された写真を持って来られた木村さん。そこには、山に囲まれた町と、そこにすむ人々の姿、丘の上から見渡すたくさんの長屋の屋根などが映り込んでいました。たちならぶ長屋の写真から推測するに、これは炭鉱街ではないか。さらに山の形を地図サイトを駆使し検索してみると、夕張炭鉱の可能性が高いことがわかりました。
確かめるべく、夕張市石炭博物館に写真データをお送りして問い合わせてみたところ、なんと、石川成昭館長からお返事が! 写真の内容からわかる限りの情報を教えてくださいました。
写真は、間違いなく三菱大夕張炭鉱のあった大夕張地区で撮影したものです。
街を見下ろしている写真は、鹿島小学校の西側の丘の上からで、かつて山神社やスキー場があったとされるあたりと思われ、中央には寺社建築のような「健保会館武徳殿」、大夕張鉄道(列車)と右に大夕張駅が確認できます。〜中略〜
「チトセ」とある店舗も昭和30年代の市街図や古写真をなどを当たればわかるかもしれませんが、私は夕張出身ではないので、ぱっと見だけではわからない状況です。
また撮影時期については、坊ちゃん重役が1952年8月公開ですが文字だけ表示なので、新作ではないと見受けます。一方、その上のポスターの「やっさもっさ」は1953年2月公開とわかったので、写真は1953年の無雪期だと思われます。
なお、炭鉱では、炭鉱会社の福利厚生により、新作映画が東京と同じ速さで届きますので、そう判断しました。
夕張市石炭博物館 石川成昭館長のメールより抜粋
そもそも、なぜ油谷さんのもとにこの写真はやってきたのだろう。
秋田の人々と夕張炭鉱はどんなつながりがあるのだろう。農閑期など、出稼ぎの人の動きと関係あるのだろうか。
さらにおいかけてみたくなります。
Information
1/1000油谷コレクション
油谷満夫さんの私蔵民具等の1000分の1程度を倉庫から取り出し、アーティストと市民ボランティアによる分類整理と、多様な分野の専門家による価値検証が並走するアートプロジェクト。
開催期間:2024年7月~
開催場所:秋田市文化創造館ほか
主催:NPO法人アーツセンターあきた
監修:服部浩之
参加作家:藤浩志、國政サトシ
協力:油谷満夫
助成:公益財団法人野村財団