
はじめに
秋田市内にあるギャラリーBIYONG POINTで、河塚彩和の個展「透明な膜をへだてて」が開かれた。本展は、河塚の初の個展である。河塚は福岡市の出身で、佐賀大学で油彩を中心に学んだ1。そして2025年から、秋田公立美術大学大学院へ進学するため、秋田へやってきた。秋田で初めて暮らす河塚によれば、こちらの春は曇天が多く、海は黒々として見え、気候の違いに戸惑ったという。
本展では、秋田への移住後に制作された、大小の油彩画8点と、土でできた小さな立体作品、滞在制作時の体験等を記録したドローイングや短文を綴ったアルバム風の手製の冊子が展示された。油彩画と立体作品は、秋田で写された古い写真を複写し、下地となるカンヴァスや土塊へ直接画像を転写するという方法で基層が作られている。油彩画では、転写した図像の上に油絵具を重ねている。本稿では、作家が個展タイトルに据えた「隔たり」という言葉を起点に、この制作スタイルについて考察したい。
近年、河塚は写真に写る「他者」や「死者」に着目した制作を行っている2。その制作スタイルは、次節で述べるように、祖母の写真を用いた絵画制作を源流としている。秋田への移住に端を発する秋田地域の写真の調査を通じて、河塚は中滝ふるさと学舎3の写真アルバムの存在を知った。そして大学院の講義「複合芸術実習」を口実に、同年11月から12月までの約一か月間、観光・教育用の宿泊施設でもある同学舎に滞在した。河塚は、同地でアルバムに収められた記念写真やスナップ写真を眺め、地域での体験を重ねる中で、以後の制作が変化した、と振り返っている4。作家が自覚する変化がどのように作品に表れているか、個展出品作の全体を概観した後、個別に3点の作品を取り上げて探る。

祖母の写真から秋田の写真へ
河塚の絵画の基層は写真である。というのも、絵画の下絵として、紙にインクジェット印刷された写真が直接カンヴァスに貼り付けられている。今回、制作のため転写された写真は、秋田県最北部・鹿角市に位置する中滝ふるさと学舎で保管されている写真アルバム、「小国分校廃校記念アルバム」から選ばれた。同学舎には、大湯地区にかつて存在した複数の小学校の写真アルバムが40冊ほど保管されている。それを知った河塚が、アルバムの実見調査を行い、その写真図像を絵に借用した。これらのアルバムの閲覧を通じて、河塚は「アルバムの背景には開拓の歴史があること、何も育たない不毛の地であっても、そこに根を下ろし生きようとしてきた人々がいたことを知りました5」と述べている。「小国分校」は、大湯小学校の分校であり、戦後に形成された開拓地のために設置された小学校だった。同校は10年弱で閉校しており、戦後の鹿角においては最も短命な学校である6。

河塚は前述したように地理的にも環境的にも距離のある秋田へと移住してきた。大湯地区、ましてや小国分校に、特別なゆかりや思い入れがあったわけではない。このような疎遠な土地をモチーフとして選んだ理由を考えるために、作家が模索している絵画への写真の転用というスタイルがどのような効果を持つのか、本節で検討したい。
そもそも写真を絵画に利用するという着想の起点は、河塚が佐賀大時代に制作した絵画にある。それは、祖母を亡くした直後に譲り受けた祖母の写真アルバムの図像を借用して制作したものである。河塚はアルバムの中から、10代後半〜20代の年頃の祖母の姿、その若い祖母と共に歩く学友らの姿をカンヴァスに写し取って、着彩し、《おばあちゃんの写真を思い起こして》(2025)という連作に取り組み、卒業制作とした。この作品で、河塚は、弾むように歩く若い男女を白地のカンヴァスの上に淡く軽やかなタッチで描きつつ、彼らの顔を描きはしなかった。
写真はレンズの前に存在した過去の現実を写し取る。そのため、作家にとって祖母の写真をその死後になぞり描くという行為には、ある拒絶が生じる。それは描画対象からの拒絶である。親密だった祖母の、それも自身と同世代であった頃の姿を、作家はカメラのシャッターを切るように再現しようと望む。しかし作家は写真に写された過去へ決して参入することができない。このような、自己と、写真に写る他者との感情的、時空間的な「隔たり」が、祖母の人物描写を輪郭だけの虚ろな像にしたと言えないか。
絵画の起源を、「戦地へ旅立つ恋人を惜しんで、その影をなぞること」と大プリニウスは説いた。この説話のごとく、河塚の絵画は愛と惜別という根源的な衝動を反復し、写真をなぞる。しかし、描く対象が、「祖母」から「秋田の開拓地」へと移ったことで、なぞる行為の意味は変化している。河塚にとっての秋田は、個人的な近しさを持たない疎遠な土地であった。そのため、秋田の開拓地の写真を扱うことで、作家自身が——たとえ無意識であるにせよ——、写真に写されたものからの拒絶を正面から引き受ける形となったのである。
出品作全体の特徴
本展会場に並べられた絵画は、抑制された白みがかった色彩が印象的だった。総じてグレージングとスカンブリングという、絵具層を薄く重ねる技法によって仕上げられている7。また、すべての絵の下絵には、「小国分校廃校記念アルバム」から人物が配されたスナップショットが使われている。河塚は、中滝ふるさと学舎に残されたアルバムを実見し、簡易な記録書を作っている。同アルバムについては「他のアルバムとは違って、よりスナップに近い(自然な表情)[傍点は筆者]」とコメントを付している。
おそらくその「平凡さ」ゆえに、同アルバムの写真が作家に選ばれたと考えられる。ここで言う平凡さとは、造形としての美しさや、「廃校アルバム」という媒体のモニュメンタリティすら後景化してしまうような、ありふれた日常の記録としての平凡さである。
しかし、これらの写真に写る「自然な表情」は、絵画の表面へは引き継がれなかった。小さな絵では写真から体の一部、主に手のみがトリミングされる。大きな絵では、人物の顔は執拗に絵具を塗り重ねられ、表情が具体的に描かれることはない。本展で最大サイズの2枚の絵画、《原っぱとかくれんぼ》(2026)では草原にしゃがんだ女の子2人の顔が、《中学3年生 迷ヶ丘にて》(2026)では木登りをする男の子の顔が、のみならず後者では画面上のほとんどのモチーフが、何重にも絵具層を重ねられ、ほとんど背景と同一化している8。これは、先述した《おばあちゃんの写真を思い起こして》での人物の描画方法を推し進めたものと言える。これらの絵には、決して作家が参入することのできないかつての開拓地の姿と、なんとかして関係を切り結ぼうとする作家の手つきが表れている。そうして、執拗に絵具層が積み重ねられディテールを失っていった絵の表面は、基層となる写真、そしてその歴史的文脈から表面的に遠ざかっていく。結果的に、河塚の絵を見る者もまた、地域に対する知識の有無を問わず、画面の手前、参入できない位置に置かれることになる。


《冷たき水 のぞく人影》
河塚は《冷たき水 のぞく人影》を2点、制作した。ひとつは2025年、秋田公立美術大学の大学院生によるグループ展に展示され、再び本展に展示された(図1)。もうひとつは同年の晩冬に描かれ、本展に初出品された(図2)。作家によれば、いずれも、同じ写真を下絵にしたという。確かに人物を中心とする構図は似ているものの、本展では具体的にどのような図像の写真を使ったかは示されてはいない。

《冷たき水 のぞく人影》(2025)パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム

《冷たき水 のぞく人影》(2026)パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム
図1は、会場の一番初めに掛けられていた。黄みがかった白と、ペールグリーンを基調とする明るい色調の油彩画である。近景は、画枠の外から葉や枝がせり出すほど大写しになっている。画面の中央には首を傾げて地面を眺めるようなポーズの黒い人影が立つ。右上には遠景として四角い建物が描かれている。作家は画面の最後の仕上げとして、白の絵具を油で薄く溶き、これらのモチーフをまたぐように画面全体をスカンブルした。そのようにして、全体に白い靄をかけて画面の調子を整えつつ、画面に無秩序に散りばめられたモチーフに一つのまとまりを与えている。
この白の絵具の筆さばきを目でよく追ってみると、画面中央に佇む人影を周到に避け、その人の輪郭の周りを何度もなぞっている。そうして輪郭をもやもやとさせながら人の形を作っている。男とも女ともつかず、どこか所在なげにも見えるこの人の足元には、波紋のように周囲へ広がっていく、数本の線も見える。こうした描写によって、この人物はまるで地面から浮いているように見える。
下絵には写真が用いられていることを思い出せば、恐らくこの人物は、実際に小国分校に関係していた誰かだったはずだ。ただ、河塚に再描出された人物は、現れると同時にもとの写真が指し示していた内容から切り離されていると言える。同じく、描かれている建物も、具体的に何が写されていたのか、作家が何をなぞったのかは明らかにされてはいない。
それに対して、画枠の周囲に配された樹木の枝は、はるかに具体的に描かれている。枝々は画面の外から内へ侵入するように描かれ/写されている。右手に枯れた枝のシルエットが目立つが、左手には、葉を茂らせた枝のシルエットが大きく描かれており、奥の景色をのぞき見るような構成になっている。左右の枝は、わずかにズレた版のように、あるいは残像のように、同じ形の枝や葉のシルエットを少しずらして何度か重ねて描いてある。木々のシルエットのズレ、人物の多重化した輪郭は、写真の「ブレ」のようだ。このズレ/ブレは、もともとスナップショットが持っていた対象とのストレートな距離を揺らし、焦点の定まらないあいまいな距離を画面上で生み出している。
もうひとつの《冷たき水 のぞく人影》
もう一枚の絵は、先述した同名作品、そして《原っぱとかくれんぼ》、《中学3年生 迷ヶ丘にて》を完成させたあとに描かれた。こちらの画面では、前作で画枠の存在を際立たせていた左右の枝葉の描写が、ほとんど整理された。代わりにマチエールの存在が目立ち、画面の物質感が強まっている。また、画面上部は暗い青のグレーズが施され、画面下部は白でスカンブルされて、場面はすっかり雪の夜に変わったかのようだ。右上に位置する建物は青の層とマチエールに埋もれてほとんど見えなくなっている。前作では独特の存在感を放っていた中央部の人影は、立像から片足を突き出した歩行者へと変わった。人物を含め、画面中央部は白色の絵具層で何度も塗り込められていて、まるでホワイトアウトの中を歩いているように見える。

画面全体に新たに現れたマチエールは、下地を作る際に施したジェッソの凹凸だという。河塚はその上に写真を転写し、絵具を重ね、地の凹凸が浮き出てくるまで画面を磨くという作業を何度も繰り返している。その結果、画面の表面全体に、大小の白い斑紋となって現れた。
このマチエールの表情が興味深く、画面に一歩近づいてみると、その瞬間、この白点は筆者の視界全体に、画面の真横から大粒の雪が降りつけているように迫ってみせた。表面に施された青のグレーズは、最下層から浮き出たマチエールの白とともに強いコントラストを生みだしている。色彩は基層にある写真を覆うだけでなく、見る者の視界そのものを覆う。新たな《冷たき水 のぞく人影》において、絵具層は物質的な層のみならず、対象への到達をまるで吹雪の中を歩くように困難にさせ、その距離をどこまでも引き延ばしていく。
土を掴む——開拓地との接触
本展では絵画の展示のほか、土に写真を転写した作品群《アルバムの一部から》が、入口からは見えない位置、展示室の最奥に展示されていた。展示台の上に握り拳ぐらいの大きさの土の塊がいくつか置いてある。土の塊のそれぞれの表面には、写真が一枚転写されている。

この作品は、写真を基層とした河塚の絵画では見えづらくなっていた、写真像の転写という制作技法を視覚的に説明している。河塚によれば、土は中滝で採取したが、粗粒な土でそのままではぼろぼろと崩れてしまうので粘土を混ぜて成形したという。このエピソードは、巨大な火山が噴火してできた十和田湖周辺の土壌の特性をよく示しているように思われる。その土は火山灰や軽石が風化してできているのだ。河塚自身は、中滝の人に土地の話をよく聞き、土地の歴史に触れている。だからこそ土を作品に利用するという着想に至ったのではないだろうか。小国分校の写真の基層は、被写体となった土地と、そこに暮らす人々なのだから。本作は、展示された絵画の下に隠された写真の由来を、言語を介さずに示している。いわば作家が絵画世界を構築するためのイメージの地層がここに提示されている。
河塚は本展目録の中で「何も育たない不毛の地であっても、そこに根を下ろし生きようとしてきた人々がいた」と記述している。これが例え地元の人の言葉を借用したものであっても、ややステレオタイプな「開拓地」への理解に感じられる。作家は土地についての自身の解釈を本展で明確に示してはいないが、作家の戸惑いから生まれた絵画は、典型的な戦後開拓地への眼差し9からは離れている。しばしば芸術家は、制作行為の道徳的な正当化を示そうとするルポルタージュや調査資料の開陳に陥りがちであるが、河塚の視線は、いまはただ写真に導かれ、現実の土地に向き合っているのみなのだろう。

《アルパムの一部から》(部分)
中滝ふるさと学舎の運営を担う湯瀬氏は、中滝について「50年余りにわたり開拓地である」と認識している10。本展で扱われた小国分校の学区は、先に2節で触れたように、国策として実施された戦後の開拓事業によって、満州からの引揚者、新潟・山形出身者らが形成した開拓地であった。同校は、この開拓地の子供たちを受け入れるため1949年に開校したが、集落の離散に伴い1958年には閉校している1112。同地域を含めた十和田湖畔の開拓地の土壌について、農林省が出した1968年の状況報告がある。そこには、十和田湖周辺の未改良の土壌が、科学的に見ていかに農業に不適で、改良を要する土地であるかが述べられている13。こうした記録や、小国分校の早期閉校という事実から、そこが農業開拓民にとっていかに厳しい入植地であったかが察せられる。中滝の土を掴むとは、こうした開拓民の過去の現実を掴むということに他ならない。
河塚が描こうとして遠ざかるのは、秋田に実在するこの土地である。それが本展の全ての絵画の基層をなしている。
まとめにかえて
河塚は、中滝ふるさと学舎での滞在経験について述べた散文で、「慣れない雪かきを学舎の方に教えてもらった」という言葉に続けて、以下のように綴っている。
ほんとに遠くにきたんだなと
そこで初めて感じた14
この言葉から、身体経験を伴った河塚の知覚の変化を読み取ってみたい。
中滝ふるさと学舎の写真群との出会いの初期に、河塚は1作目の《冷たき水 のぞく人影》を描き、同学舎での約一か月の滞在調査を終えてから、2作目を描いた。それらは同じ写真を下絵にしている。河塚は、写真に写された場所に近づくため、現地に身を置き、身体的な経験を得た上で、写真の上に絵具を重ねていった。だが、1作目では、人物の輪郭、そして画枠のように見る者の視界を遮る枝葉の図像にズレ/ブレが生み出され、対象との距離は写真そのものよりも不安定になっていた。2作目では、絵の表面に浮き出たマチエールと、何重にも塗られた絵具の薄い層が、下層に置かれた写真の図像を覆うだけではなく、見る者の視界を遮り、対象への接近をより困難にさせていた。

河塚の絵画制作は、写真に写る、かつてここに生きた人々、いまはもう手で触れることができない存在に、なんとかして近づこうとする試みである。しかし、2節で見たように、祖母というもっとも身近な他者を描こうとすれば、その顔は消えていく。河塚にとっては縁遠い存在であった開拓地の人々では、描けば描くほどその像は色彩に覆われて、姿が見えなくなっていく。
絵画と同様に、写真の転写によって作られた《アルバムの一部から》は、写真と土が直接的に重なる場であった。この作品に使用された土は、半世紀以上営みが続く開拓地の土である。この作品を補助線に、再度河塚の絵画を眺めれば、鑑賞者から遠ざけられているものは写真の図像だけではなく、写真に写り込む土地そのものであったと推量できる。
河塚の絵画では、色彩は、対象を描くために用いられるというよりは、対象との距離を引き延ばしている。遠くに置かれるのは、描き手が参入できない過去である。しかしそこから遠ざかるほどに、写真と土地から作家が受け取ったイメージが表れてくる。河塚の絵画は写真を基層とするが、その上に絵具が何度も重ねられ、削られ、最終的には最下層のマチエールが最前面に出現する。積み重ねられた層は順序を失い、見る者の視界をかく乱する。そうして直接的な対象の把握が妨げられていくなかで、容易には参入することのできない場へ、作家は独り接近しようと試みているのである。

- 1 作家にまつわる基本的な情報、本展の開催経緯については、別のウェブレポートに詳しくまとめられているので参照されたい。アーツセンターあきた「そこにある隔たりの中で 河塚彩和個展「透明な膜をへだてて」開催」2026年2月16日 https://www.artscenter-akita.jp/archives/58165 ↩︎
- 2 河塚は、本展目録に寄せたステートメントで次のように述べている。「絵画を『膜を立ち上げる行為』として捉え、アルバムに残された写真に写る不在の他者の記憶と、私とのあいだにある触れることのできない隔たりを保ちながらも、その接触の痕跡を画面に定着すること」。(河塚彩和『透明な膜をへだてて(目録)』2026年、自家印刷。) ↩︎
- 3 中滝ふるさと学舎は、鹿角市大湯地区に位置し、2008年に廃校となった旧中滝小学校(大湯小学校田代分校中滝校舎)を観光施設に転用したものである。湯瀬政弘「学舎(まなびや)に新たな息を吹き込み活かし続ける」『地域いきいき観光まちづくり2011』2012年、観光庁、p.28。 ↩︎
- 4 2026年3月2日、河塚彩和への聞き取りによる。 ↩︎
- 5 前掲の本展目録より。 ↩︎
- 6 鹿角市先人顕彰館研究員『江戸期から平成の鹿角人物事典 改訂・増補版』鹿角市教育委員会、2024年、p.28。 ↩︎
- 7 グレーズは、透明または半透明の油絵具を油で薄く溶き、明るい層の上に暗色を上塗りする技法である。スカンブルもそれに類する技法で、不透明または半透明の油絵具で、暗い層の上に明色を上塗りすることを言う。どちらも下層の色を透かして塗り、混色では表せない色調と明暗の微細な変化を生み、直描きでは得ることのできない奥行や透明感を表現することができる。
以下を参照。佐々木英也監修『オックスフォード西洋美術事典』1989年、講談社、p.377-378, p.536。) ↩︎ - 8 筆者が後者の絵画で被写体を認識できたのは2026年3月2日に受けた河塚からの解説による。 ↩︎
- 9 ここでは、濱谷浩が北海道・東旭川(現旭川市)の戦後開拓地の農民が冷害に喘ぐ状況を写した《まったくやりきれない》(中央公論1957年3月号))を挙げておく。 ↩︎
- 10 湯瀬政弘、前掲書。 ↩︎
- 11 河塚彩和「複合芸術実習報告書 漂流記 中滝ふるさと学舎での滞在」2025年、自家印刷。なお、現在は廃村。また、同じく大湯小学校の分校が設置されていた大清水は、小坂鉱山煙害被害を受けた農民の救済のために1918年に開拓された湿地帯であった。現在は廃村。(小坂町町史編さん委員会『小坂町史』1975年、小坂町、p.201-203、p.633) ↩︎
- 12 鹿角市先人顕彰館研究員『江戸期から平成の鹿角人物事典 改訂・増補版』鹿角市教育委員会、2024年、p.28。大湯地区内において、小国分校は、不老倉鉱山閉業を受けて閉校した不老倉小学校に次ぐ早さでもあり、同地域の他の開拓地の小学校よりも早期に閉校されている可能性がある。 ↩︎
- 13 曰く、「今日まで当土壌地帯においては殆んどの地区が二回にわたって土壌改良をしてきているが、完全に改良された地区は当土壌地帯には全く見られない」。農林省農地局『開拓計画基準調査資料:開拓地における地力の変せんと今後の維持増強対策 』1968年、p.74。 ↩︎
- 14 河塚彩和「ふゆ ・*:. 」『道端の雪に星を見る 秋田公立美術大学大学院複合芸術研究科修士課程1年生成果展(目録)』2026年、p.10。 ↩︎
Profile プロフィール
中村絵美 Emi Nakamura
Profile 作家プロフィール

Information
河塚彩和 個展「透明な膜をへだてて」
*本展覧会は終了しました*
透明な膜をへだてて
■会期:2026年2月28日(土)~3月29日(日)
入場無料、会期中無休
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
(秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■在廊日:3月8日(日)、3月22日(日)
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137 E-mail bp@artscenter-akita.jp
※2025年度秋田公立美術大学「ビヨンセレクション」採択企画