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菅江真澄をたどるプロジェクト ディスカッション「現代の視点から真澄の行為をたどる」

「旅」「移動」「記録」「表現」などをテーマとする展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」に向けた公開プロジェクトとして始まった「菅江真澄をたどる勉強会」。秋田に滞在して真澄の「木」に着目した作品を制作するアーティスト 長坂有希と、インディペンデントキュレーター 服部浩之、哲学・文化人類学研究者 唐澤太輔によるデスカッションの記録です。

「旅」「移動」「記録」「表現」などをテーマとする展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」に向けた公開プロジェクトとして始まった「菅江真澄をたどる勉強会」。第2回目は「現代の視点から菅江真澄の行為をたどる」をテーマに開催しました。
第1部では、9月から秋田で滞在制作をおこない「木」に着目した展覧会をBIYONG POINTで開催したアーティスト 長坂有希氏が「菅江真澄を追体験する」と題してレクチャー。続く第2部では、長坂氏に唐澤太輔氏、服部浩之氏が加わり、現代の視点からみる菅江真澄の行為についてディスカッションしました。レジデンス・アーティストとしての真澄に迫ったディスカッションの記録を公開します。

日時|10月7日(月)18:00〜20:00
場所|秋田公立美術大学大学院棟1F G1S
ゲスト|長坂有希(アーティスト)
パネラー|唐澤太輔(哲学、文化人類学研究者、秋田公立美術大学大学院准教授)/服部浩之(インディペンデント・キュレーター、秋田公立美術大学大学院准教授)
内容|
・レクチャー
「菅江真澄を追体験する」長坂有希(記録はこちら
・ディスカッション
「現代の視点から菅江真澄の行為をたどる」長坂有希、唐澤太輔、服部浩之

左から服部浩之、唐澤太輔、長坂有希

「現代の視点から菅江真澄の行為をたどる」

服部 菅江真澄を起点とした展覧会をつくるために、長坂さんには秋田で滞在制作をしていただいているのですが、アーティストらしい視点で「本物ってなんだろう」というところであったり、美術の問題にぐっと寄ってくれて、面白いなと思って話を聞いていました。唐澤さんはいかがですか?

唐澤 すごく面白かったです。考えさせられるところがいっぱいありました。本物と複写したものって、本当に違いますね。今まで僕らが「菅江真澄っていいなぁ」と見ていたものが実は複写だったという可能性もあるわけですよね。すごく衝撃を受けました。複写したものって、なぞっている感じがするんですよね。「なぞる」ことと「真似る」ことは語源的にも違っていて。恐らく複写されたものというのはなぞっているんですよね。「真似る」というのは「学ぶ」ということでもあるんです。「学ぶ」と、ただなぞるだけって全然違っていて。「真似る」というのはもっと内面化するという感じがするんですよね。複写したものを見ると、「真似る」ではなくただなぞっているだけだなという気がして、力強さなどが感じられなかったのが衝撃的でした。

もうひとつ面白かったのが、木こりが切った後に梢を立てる「とぶさ立て」が出てきたこと。あの風習はいつから始まってどういうふうに受け継がれてきたのかよく分からないんです。古神道的なものではあるんですが、今の世の中でもまだ続いているのかなと単純にすごく気になりました。木に対する敬意、リスペクトのようなものがありますよね。そこに着目した菅江真澄というのも、やはりすごいなという気がします。
いくつか画像を見せてもらいましたが、木の近くには大抵、祠か鳥居があるんですよね。昔の人たちも木に対して尊敬の念や敬意を抱いていたんだろうなとすごく感じました。そして、それを逃さずにしっかりと記録しているというのは、真澄の観察眼の鋭さを感じますね。あとは、やはりオリジナルと複写の差というのは大きいんだなと。そこにはやはり「真似る」「学ぶ」ということと、ただ単に写すような「なぞる」ということとの違いがあったと思います。能楽に「無主風」と「有主風」という言葉があって、「無主風」はただ似せるだけで自分のものとして体得しきっていないような、まさにこの「なぞる」みたいなものです。「有主風」は芸を自分のものとして体得しきった境地、まさに「真似る」「学ぶ」といったことなんですね。そういった言葉にも通じてくるように思いました。

長坂さんは、菅江真澄が描いたものを写すことで、彼の意識を取り入れることができないかとお話しされていました。その辺りに関して「真似る」「なぞる」とか「無主風」「有主風」という事柄を長坂さんがこれからどういうふうに表現していくのかな、と楽しみになりました。

真澄のリサーチを通した思考の流れ

服部 長坂さんには8月に1度秋田に来ていただきましたが、9月に来て環境設定して、おそらく10日もないくらいの中でここまでフォーカスを絞れるんだと、まずはそこに驚きました。作家が集中した時の、何かを掘り下げ、たどっていく、見出すものができた瞬間の走ることのできる力が面白いなと思いました。

木もあんなふうに並べてみたことは僕もなかったですし、それがたとえ複写だったとしても、並べられただけで見え方が変わります。恐らくそこで編集が入っているなどしていて、今日はレクチャーをある種のパフォーマンスのようにして聞けたのが面白かったなと思います。教えてもらっているというよりも、長坂さんの考えていること、あるいは大切にしていることみたいなものがリサーチを通して描かれ、最後にタイトルが出てくる、という非常に面白い流れでした。そんなふうに思考の流れが見えたことがすごく良かったです。

おそらく通常、展覧会ではこのお話の最後の部分しか見えないことが多いですよね。あるいはトークのような場でアーティストが語ってくれることはあるとは思うのですが、対象との出会い方だったり作品を作っていくまでの考え方、表現者としての真澄に対するリスペクトなどが見えて、もっと学生にも聞きに来てほしかったなと思いました。

BIYONG POINTでの展覧会のタイトル「木:これから起こるはずのことに出会うために/Trees: Audition for a Drama still to Happen」について質問したいのですが、英語を先に考えますか? 直訳ではないと思うんですが、そこにあるズレというか、英語と日本語のタイトルを同時に提示することによってどういうことを考えていらっしゃるんでしょうか。

本物と複写との「ズレ」

長坂 自分の中で一番考えやすいのが英語なので、英語で考えます。海外で展覧会をするのであればそれで大丈夫なのですが、日本でやるので日本語も付けた方がいいだろう、ということでこうなりました。「audition」だったり「drama」という言葉、特に「drama」は英語ではいろいろな意味に読み取れるので、解釈の幅が広いと思いました。日本語で「ドラマ」と言ったら「テレビドラマ」となってしまうし、「戯曲」と言ったら「劇」になってしまうのですが、その後にくる言葉に「自然発生的に起こること」というニュアンスを含ませたいので、合わないな、と。「オーディション」は「芸能オーディション」のように受け取られてしまうので、言葉を探してなんとかこのタイトルをつけた、という感じです。

唐澤 日本語と英語のズレみたいなものもあると思うのですが、実は「ズレ」って面白いですよね。真澄の複写においても、本物と複写したものにはズレがある。でもズレがあるからこそ面白かったりする。もちろん私たちは、本物を全く同じ色で、全く同じ感覚で描いて再現するっていうのはもちろん不可能で、また、もしそれができたとしても、それは実はつまらないことであって。そこにズレが生じるからこそ何か面白いものが生じるんだろうという気がします。長坂さんが作品をつくっていくなかでも、真澄との一致を目指しながら少しズラしていく、ということはきっとあると思うんですね。「長坂フィルター」みたいなものがきっとある。それを完全に取っ払うことはもちろん難しいしできないこと。そのフィルターを通しながらも真澄に近づいていく、そして、ズレを生んで面白いものをつくっていくのはすごく大変なことなんじゃないかと思います。長坂さんは作品をつくるとき、そういう「ズレ」をどのように考えていますか?

長坂 歴史的に存在しているものをテーマにするとき、絶対に「ズレ」を見越してつくります。本物が持っているオーラというものがあるので本物は1回は体験したいなとは思いますが、じゃあコピーとか偽物が良くないとか劣っているかというとそうではなくて、そのズレをどう調節するか、どのくらいまであえて意図的に見せるのか、見せないのか。私たちが昔の人のことを扱うためには、そのように意識することが必要なんじゃないかなと思います。

唐澤 意識的にズラす、または無意識的にズレてしまう、ということはあるとは思うのですが、大元にはやはりオリジナルに対する敬意は必要だということですよね。それをもって何か面白いものをつくろうというのと、リスペクトなしにただ真似てつくろうというのでは全然違ってきますから。そこに「ズレ」の面白さ、つまらなさが出てくるんじゃないかなという気がします。

菅江真澄のアーティスト・イン・レジデンス

服部 通常、アーティスト・イン・レジデンスなどでどこかに行くと他にも作家がいますが、今回滞在制作する作家は長坂さん1人です。同じ状況の人がいないことを長坂さんはどう感じていますか。

長坂 菅江真澄は一生旅をしていた人。今回私が置かれている状況も、全然知らない人や場所のなかで制作に集中するという「アート道場」のように感じています。普段の生活というルーティンがないなかで、ずっと生活して、制作していくということに私は限界のようなものを感じることもあって、これをずっとやっていた真澄の人生って…と思うこともあります。

唐澤 真澄はそれこそいろいろなところにアーティスト・イン・レジデンスのように滞在して、いろいろなものを描いているわけですが、その土地の人たちにとても歓待されているんですよね。土地を離れる時には、何十人というお見送りの人が来て手を振ってくれたこともあった。それで、彼がなぜそんなに歓待されていたのかを考えてみたんです。それはおそらく、彼の絵にあると思うんです。彼は絵を描いて、その土地の人たちに見せていた。そして、人々は見せてもらうことによって「自分の住んでいる場所にこんな知らないことがあったんだ」と気づいたりする。それがすごく嬉しくて、どんどん交流が深まっていったということがあると思うんです。

これは服部さんに聞いてみたいのですが、今のアーティスト・イン・レジデンスでも、真澄のように何か自分の持っている知識とか絵とかを地域の人に見せて喜んでもらうということをアーティストたちはやっているんでしょうか。

服部 アーティスト・イン・レジデンスって、公共機関などがやっている制度としてのものと、もっと自発的に勝手にやっているものとがあります。僕は以前、山口県で自宅を友人とシェアして住んでいた時には、いろいろな人が泊まりに来て、泊まっていった人が何かを残していく。飲み会をすると、近所の人も来るようになる。地域交流をうたうよりも、生活者が勝手にやることの方が自然と地域と繋がってしまう。おそらく今でもその家にはいろいろな作家の作品がまだ残っているでしょう。

アーティスト・イン・レジデンスという制度は多分、地域との交流を目的につくられたものではなかったと思うんです。どこか別の環境にアーティストがスタジオを構えて、アートの専門家をはじめとする世界中の人々とアーティストが出会うことで、ネットワークを築き、彼らが成長し、キャリアを形成していく人材育成を念頭に置いたものだったと思うんです。つまり「アーティストが滞在すること」自体に価値が置かれていたわけです。日本でアーティスト・イン・レジデンスを最初にはじめたのが、茨城県のアーカスプロジェクト(1995年)。県が立ちあげた事業で、国際交流や人材育成だけでなく、地域交流も納税者へのわかりやすい還元となる目的の一つとしてあったんだと思います。地方都市や小さな街でアーティスト・イン・レジデンスを行っているところが多かったんですよね。そのため、日本のレジデンスやアートプロジェクトと地域交流が結びつけられることが一時期は強かったと思います。アーティストに滞在以上のことを求めることにつながり、ワークショップやトークをして積極的な交流を促すなど、元々は派生的なプログラムだったものが主目的になるなど、本末転倒になることも多々ありました。今は状況は変わっていると思いますが、いずれにしても他者がやって来ることによって何か新しいものや異なるものが運ばれてくるというのは、あったはずです。

また近年は、おそらく格安航空の出現など移動の低価格化と多様化の影響もあり、レジデンスのあり方もますます多様化しています。短い滞在を何度も重ねることで作品を深めていく人、同時に異なるレジデンスを往来する人もいれば、2年とかの長い期間の活動拠点としてレジデンスを活用する人もいる。真澄は、さまざまな土地に異なる期間、異なるかたちで滞在したレジデンスの多様なあり方を既に実践していたのかもしれません。

唐澤 僕は、真澄的なアーティスト・イン・レジデンスとはどんなものなんだろうといろいろと考えていました。彼の文章を読んでいると、滞在させてくれている土地の人たちを喜ばせるような歌や絵が多いような気がするんです。真澄には、土地の地名や風物を描いて、他者がいかに分かりやすいか、他者がいかに喜ぶかなど、他者目線的なものが強くあったという気がしていて。一方で、現在のアーティスト・イン・レジデンスにおいては、そういった他者目線や滞在させてくれている土地の人たちを喜ばせようという、それがいいことか悪いことかは置いておいて、そういった目線あるいは姿勢はどの程度あるのかなという単純な疑問があります。あともう少し考えたいことは、いかにして地域や場所に、完全でなくとも溶け込むことができるのか。もしくは、異物は異物としてどのように上手くやっていくことができるのか、ということ。

長坂さんは秋田に来てみて、自分はまだ異物だという感じはありますか?いつか溶け込みたいですか?それとも、異物は異物としてありながらもなにか新しい形をつくっていきたいという感じですか?

長坂 秋田に来て2週間なので、完全に異物だと思います。でも、唐澤さんがおっしゃっていたように、外の人・内の人、移動・定着というのを二項対立で考えないこと。そうじゃないと道は開けないなと思っています。私の制作としても思考の流れとしても開けないなと。

唐澤 それは真澄と自分との在り方もそうじゃないといけないのではないかと。真澄をそのままたどる、入り込むだけではなく、自分は自分でありながらも真澄に近づこうというか。そういううまい距離の取り方は制作する上でもすごく大事なんだろうなと。ただ入り込んでしまうのではなく、自分を持ちながらも入り込むというような。

手で「写す」ことから真澄にアプローチする

服部 長坂さんはこれから「写す」ことをやっていくわけですよね。「写す」という行為をどういうふうに考えていますか?

長坂 私は絵を描く人ではないのですが、今回、まずは手を使って描くことが大切だと思っています。一度、自分の手を使って描いたものを、さらにもう少しずらすという意味でシルクスクリーンにしようと思っています。一度描くことにはいろいろな意味合いがあると思っていて。いろいろな人のいろいろなアプローチがあると思うのですが、私はアーカイブをアーカイブのまま、作品として見せるのはどうなんだろうと思うのが1つと、今回においては原本を見せられない難しさもありますし、作品的観点から言うと自分で描くことによって原本の絵を自由にしてあげる、解放してあげるみたいな意味合いもあります。

菅江真澄も南方熊楠もそうですが、印刷技術がなかったからでなく学ぶ手段や体験する手段として、自分の興味のある本の抜粋や絵などを写すことでそれを自分のなかに取り込んでいったという感覚があります。真澄は旅の途中にメモ的に描いていたものを清書したりして、そのバージョンを泊めてもらった家の人にあげて、また次のバージョンをつくって…というように繰り返し描いていて、最後に残ったものが現在のものです。今回においては、手で「写す」っていうことをやってみたいと思います。

唐澤 熊楠の話が出ましたが、彼の集中力って半端なくって、対象に深く入り込んでしまうんですよね。それを彼は「直入」と呼んでいます。ただ、熊楠には絶対外せない熊楠フィルターがあるわけで。直入して、彼のフィルターなり網のようなもので掴み取ったものを、彼の中で再構成して、アウトプットしたときにすごく面白いものができる。だから直入した対象と彼がアウトプットしたものというのは、やっぱり少しズレが生じているわけです。そして、そのズレによってすごく面白いものが生まれる。その辺り、長坂さんと通じるものがあるのかなと思いました。

真澄は「木」の何を描きたかったのか

服部 ここからは、ご質問、ご意見を会場の皆さんにうかがいたいと思います。

小松 仁鮒のイチョウについてですが、現地に行かれたことありますか?

長坂 まだ行っていないです。

小松 ぜひ行かれた方がいいと思います。200年前に真澄が描いているのですが、そんなに変わっていないんです。どうやってそれを表現したのかというのを行ってみて見比べてみると面白いと思います。筏(いかだ)の大杉(横手市山内)であるとかいくつか真澄が記録した木のなかで今も残っているものをピックアップして、県内をフィールドワークされるとより面白い作品ができるかなと思いました。本当に200年経っても変わらない風景というのはあるんですよね。山ももちろんそうですが、木のなかで真澄はどの部分を強調したかったのか、そこに彼の描きたかったものが実際に見ると見えてくるのではないかと思いますね。

長坂 確かにイチョウの木は、構図が凄いですよね。いっぱいいっぱいな感じで。そこに描かれているものの切り取り方とかが、面白いですよね。

小松 真澄のことを取り上げて何かをしようとすると、彼はバイタリティがありすぎてどう扱っていいのか分からなくなることが結構あるんです。でも長坂さんは「木」というものにフォーカスしたのが非常に面白い。そこを一点集中で攻めると、より真澄の奥深さが見えてくるのかなと思います。

 本物と複写の違いは、衝撃的ですね。原本を見て、全然違うじゃん!と思いました。現地には、ぜひ行ってみた方がいいと思います。樹齢千年規模の木の前に行くと、その存在感は「木」ではないんですよ。木ではなく「何者か」であるみたいな。そういう存在感と営み、時間の流れみたいなもの。その場所に祀られるべき理由があり、人の手によって植えられて、なおかつ目をかけられてきた。その営みの存在感というのが圧倒的に違うというのが描いてきた理由でもあるし、その地域の人にとってそれを描くということがいかに重要だったか。そこに他者が入ってきて、言葉も書けて絵も描けるなんて、スーパースターみたいな感覚がある。

それは僕もパプアニューギニア時代に経験していて。パプアニューギニアの奥地では日本人がいるだけでじっと見られる。何かするだけで喜んでくれる。そのなかで僕も描いてたんですよ。地元の子どもの顔を描いたり、長老の顔を描いてあげたりすると、写真がないし印刷物、メディアというメディアが全てない世界の人たちにとって、それを描いて見せることは超娯楽なんです。今回、描くこと、記録することの価値を改めて感じました。

真澄の「木」の表現の方法としては、空間を描いている気がするんです。なんというか、「空」の方を描いているというか。幹の内側にある線の執拗さというか。長坂さんの直入の仕方もある種、変態的というか、超えてる感じが面白いんですよね。あそこまでリスト作らないですからね。あれに僕は感動しました。

長坂 当初は、現地には行かないでおこうと思っていたんです。あくまでも「真澄が描いたもの」をベースにして追体験しようと思ってて。11月の展覧会が始まってから実際の場所に移動する、というように、展覧会を1つの区切りのような、「門」みたいなものとして考えてたんですけど。博物館の方からデータをいただいた時に、オリジナルと複写にここまで違いがあるということに気づいて、愕然として。今もお話をしながら「真似る・学ぶ」と「なぞる」こととの違いを考えていて。真似る技の上手い下手ではなく、実際のものがある場所を体験する。そして木の周りにあるものなども知っていながら木を描く。というのが大切なのかなというふうに制作の仕方を再検討しているところです。

それと、私は今まで真澄は「記録のために描き残している」という印象を強く持っていたのですが、写真や文字や絵などがない地域に生きている人が、自分たちが常に見ているものを似せて描いてくれたりしたら宝物みたいになるということを初めて認識させていただいて。ありがとうございます。

服部 長坂さんが見た真澄の絵は、データなんですね。実物はまだ見たことがないということで。美術品とは思われていないから、実物に意味があるわけではなくて、情報や文献として重視されている。物として愛でる対象とはされていなかったわけですよね。これはすごく重要な観点ですよね。美術ではない観点から評価をされていた。

 菅江真澄の作品性ということを考えると、実物である必要があるのかどうか。今のデジタルな社会のなかで、本物ってなんなのか、作品性というものを考える上で新しい在り方というのがあるような気もしました。「この絵は本物じゃないから違うよね」ということでもない作品性というのが、彼の活動のなかにはあるのかもしれない。そこも掘り下げたいですよね。

唐澤 本物って一体なんなんだろうというのはすごく考えさせられますよね。デジタルだからこれは偽物だ、というわけではないし。複写しているものが面白いということも実はあるかもしれないですし。さらに、本物と偽物のズレというところでまた面白いものが生まれてくるかもしれませんよね。今回、本物って一体なんなんだろうというのをすごく考えさせられました。そういった要素も展示に盛り込んでいけると面白いかもしれないですよね。

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた チーフ

高橋ともみ

秋田県生まれ。博物館・新聞社・制作会社等に勤務後、フリーランス。取材・編集・執筆をしながら秋田でのんびり暮らす。2016年秋田県立美術館学芸員、2018年からアーツセンターあきたで秋田公立美術大学関連の展覧会企画、編集・広報を担当。ももさだ界隈で引き取った猫と暮らしています。

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