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探求の先に浮かぶ色 河塚彩和個展「透明な膜をへだてて」トークイベントレポート

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで2月28日から1ヶ月にわたって開催した秋田公立美術大学 大学院複合芸術研究科修士課程に在籍する河塚彩和による個展「透明な膜をへだてて」。3月21日には美術史家の山本丈志氏をゲストに招きトークイベントを行いました。

2月28日(土)から3月29日(日)まで、秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTにて行われた河塚かわつか彩和さな(秋田公立美術大学 大学院複合芸術研究科修士課程) による個展「透明な膜をへだてて」。河塚は2025年10月から11月にかけて鹿角市大湯地区に滞在し、かつてそこにあった人々の暮らしが記録されたアルバムとの出会いから作品を制作。アルバムに残された写真を素材として制作した絵画作品を展示しました。

▶︎そこにある隔たりの中で 河塚彩和個展「透明な膜をへだてて」開催
▶︎描けば描くほど——中村絵美評 河塚彩和個展「透明な膜をへだてて」

3月21日(土)に行われたトークイベントには、秋田県立近代美術館、秋田県観光スポーツ部文化振興課、秋田県立博物館の学芸員として長年秋田の美術を研究し、秋田公立美術大学の作家たちと関わってきた美術史家・山本丈志氏をゲストに招き、トークイベントを開催しました。ギャラリー内に椅子を並べ、作品を前に交わされたトークの様子をレポートします。

アルバムを求め、中滝へ

河塚: 今回の展覧会の作品は、私が鹿角市の中滝ふるさと学舎という所に滞在したときに出会った1冊のアルバムを読み解き制作したものです。かつてそこにあった風景や、そこにいた人との間に「隔たり」があるけれど、そこにどう繋がることができるかを探っていました。
今回、美術史家の山本丈志さんにお越しいただき、絵画制作について話していければと思います。

山本: よろしくお願いします。 河塚さんの絵について、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。まずは、河塚さんのことをお聞きしたいと思います。

河塚: 出身は福岡です。大学は佐賀大学の芸術地域デザイン学部西洋画専攻という所にいて、絵画をずっとやっていました。

美術史家・山本丈志氏(右)と作家・河塚彩和

山本: どうして秋田まで来たんでしょう。

河塚: もともと私は自分の記憶や思い出から制作をすることが多くて、外に出るタイプじゃなかったんです。でも、卒業制作のときに、亡くなった祖母の思い出から作品をつくろうとしたのがきっかけで、他者の記憶を描くときには、アトリエにこもるのではなく、実際に自分が外に出て、彼女たちが見ていた風景を知る必要があるなと思ったんです。

そのころ福岡の糸島国際芸術祭で藤浩志(美術家・2025年度まで秋田公立美術大学教授)という人に出会いました。藤先生と話をしているうちに秋田に興味が湧いてきました。秋田には、外に出てリサーチ・制作することを、ちゃんと評価してくれる環境があるんだと感じ、大学院進学のタイミングで秋田に来ました。

山本: それじゃあ今年初めて秋田の冬を経験したんですか。

河塚: はい。秋田の冬、初めてでした。10月末から1カ月間、鹿角市中滝に滞在していて、11月末には雪が降っていましたね。

山本: 中滝って、鹿角市の中でもかなり山のほうで、あまり人の住んでいない場所ですよね。どうして中滝に滞在することになったのか詳しく教えてくれますか。

河塚: 秋田に来てすぐのころ、制作のモチーフになるアルバムを求めて、知り合いを尋ねながら秋田県内をふらふらと旅していたんです。やがて、中滝ふるさと学舎というところに古いアルバムがたくさん保管されているという話を聞いたので、実際に行ってみることにしました。

中滝ふるさと学舎は廃校になった小学校を利用した文化施設で、カフェがあったり、キャンプもできたりします。もともと校長室として使われていた「山の子の部屋」という部屋があり、そこにアルバムが何十冊も並んでいた。ただの閲覧室じゃなくて、障子の1枚1枚にサイアノタイプで写真が印画されていて、不思議な空間でした。

河塚: 調べていくと、中滝という集落には開拓の歴史があり、中滝小学校(現在の中滝ふるさと学舎)と分校がいくつかあったらしく、その当時の様子が記録されたアルバムが誰かの手によって集められていたんです。
もうちょっとアルバムの背景を知りたいなと思ったので、滞在させてくださいと交渉し、制作に至ります。

山本: そこで出会ったアルバムというのがこれですか。ちょっと変わってますね、布張りで。

河塚: そうなんです。写っているのは小国分校といって、炭焼きを生業にしていた人たちの子どもが通っていた学校。炭焼きの人たちは木を切って炭にして、また移動していく。移動に合わせて校舎の場所が転々と変わるのでカタツムリ分校と呼ばれていたそうです。学校があった場所は山になっていて、今は誰も場所が分からないようです。

山本: そのアルバムも、中滝に集められていたわけですね。あの辺りは開拓地で、牧場をやっていたり、山のほうに点在して住んでいる人たちがいたんですよね。中滝が学校としては中心的な存在になっていたと聞いたことがあります。そういう時代のものなのかな。

河塚: 中滝ふるさと学舎のアルバムの中で、これだけほかのアルバムと違って学校らしい堅苦しさがない。静かなスナップ写真が並んでいて、とても惹かれました。すごく描きたいなと思わせてくれたんです。

小国分校廃校記念アルバム

河塚: 小国分校が廃校になったのは1958年(昭和33年)です。中滝ふるさと学舎には昭和から平成までのアルバムがあったんですが、アルバムの写真をモチーフに制作するようになったきっかけが私の祖母だったこともあって、祖母に近い年代に目を向けたんだと思います。

山本: 以前は身内であるおばあちゃんの写真を使っていたそうですけれど、そのときは「膜」というイメージはあったんですか?

河塚: 祖母のときから、膜のイメージはありました。古典的な環境にいたのでそれまでは散歩中に出会った植物とか、静物を写実的に描いていたんですが、祖母が亡くなったとき、その姿を写実的に油絵にするってことができなかった。

なにか違うなと思い始め、自分の記憶の中で浮かび上がってくる祖母の像とのギャップみたいなものを画面に表したいと考えるようになった。そのために絵画の構造を自分で開発してきました。

《おばあちゃんの写真を思い起こして》:パネル、トレーシングペーパー、油彩、メディウム転写

山本: 写真を使うということは、フォルムそのものは画面にドンと落とし込んでしまうわけですよね。そこにただ色を塗っただけだったら、ちょっと絵とは言えない。人の絵をコピーしてきてキャンバスに写して、そっくりにできたって言えばそれまでなんだけれど、当然、否定的な見られ方をしてしまう作画の仕方ではある。そうだとすれば、それが人とは違う、私の作品だといえる核になるものが説明されなきゃいけないと思うんです。

おばあちゃんを描いた作品は、顔だったら肌色を塗るし、服は服の色を塗るというように、かなり説明的に色を塗っている。そこが今回の作品ではだいぶ変わってきていますよね。なぜ、そういうふうに変わってきたのかなという部分も含めて、話していければいいなと思います。

表現技法と「膜」のイメージ

山本: 今回の作品は、コピー用紙に印刷した写真を画面に転写している。その上から彩色をしており、私はアクリルなのかなと思ったんですが、油彩だという話でした。これもちょっと特殊なんですよね。

河塚: そうですね。油彩は油彩なんですが、パネルに写真を転写した後に、いろんなモデリングペーストなどを重ねて、絵具が滲むような支持体を作っています。そのためマットで水彩に近い質感になっているんじゃないかと思います。それを求めてつくっているところがあります。

山本: 油絵具は本来、決して不透明なものではないんですが、印象派以降、ベタ塗り、厚塗りするようになったので、油絵っていう不透明で、上から塗れば下の色は見えないと思っている人もいるかもしれません。

本当は油絵具というのは非常に薄くて、光の透過性があって、下の色も出してくれる絵具。もしかしたら、そのあたりも意図して油絵なのかなと思いました。

河塚: そうですね。水彩では絶対に出せない色だと思います。油絵特有の透過性は重要で、色が滲んだり、偶然性が出やすいのが特徴だと思います。

山本: 水彩絵具はキャンバスに色の粒が付くだけですからね。でも油彩は油が粒の周りを包むようになっているので、光の透過性が変わって、下の色の見え方も全然変わってきますよね。

河塚: 元の写真はとても情報量が多くて、実在感があるんですが、絵画に使用するときは色味をデータ上で変えてフラットにしています。立体的なものを平面的にして、写真の中に入り込みやすくしている。その時点で制作が始まっているんです。

その写真をキャンバスに転写し、上に絵具を乗せることで像を消しながら描く、流しながら描くみたいなことをやっています。ここを浮かび上がらせる、ここは浮かび上がらせないというやりとりを画面と向き合いながら続けて、気が付いたら違う風景が立ち上がっている。そこでようやく手が止められるという作り方です。

山本: とても感覚的ですね。その感覚に迫ることができればいいんだけれど、なかなか難しい。例えば人の顔があれば目鼻とかで個性が出てきますよね。そういうのは消すのかな。

河塚: 消す傾向にありますね。

山本: そうすると、1人の人として生きてきたっていうよりも、その時代を生きてきたっていうのを見ている感じなんですか。普遍的な時間というのに目を向けているような。

河塚: そうですね。想像力をかき立てる感じにしたいと思っています。顔がはっきりあると「その人がそこにいました」で終わってしまう。肖像的なものになることは求めておらず、それを避けるように、絵画の構造を分かりにくくしているところがあります。
自分自身で構造がわからなくなるんですが、敢えてルール化していないところもある。これをやったら完成しますとは決めない制作方法を採っています。

山本: それが一番、見る人にとっても分かりにくいところではありますよね。その曖昧な部分が明らかになることで、何かを求めて、あがいている様子が伝わるかもしれないですね。そう考えていったときに、この展覧会のタイトルになっている膜がすごく気になってきます。

展覧会のタイトルを見たとき、にくづきの膜だから、ぬめっとした有機体をイメージした。けれど、この画面を見ていてもそういうイメージではない。河塚さんが考えている膜っていうものについて教えてください。

河塚: 皮膚のイメージがあります。分厚くて生々しい皮膚じゃなくて、概念的かもしれないけれど、薄いけどそこにあるイメージ。

中間領域を行き来できる膜のイメージがあります。自分と隔たりのある他者との間に、1層の膜があることで、やっと自分が入れる。パネルの布地が膜になっていて濾されている感じです。


《やわらかな皮膚》 2026/パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム/220×273

山本: 膜だから、壁ではないんですよね。

河塚: そうです壁ではなく、透過するもの。

山本: 透過する。私が一番気になるのが、何が透過するのかという部分です。河塚さんの気持ちは透過していると思うけれど、膜の向こうにあるのは、記憶、過ぎた時間ですね。こちらは動いている時間。その膜を通っていくものが一体何なのか知りたい。そして膜の向こうからも、戻ってくるのか、何か伝わってくるのかなという部分も知りたいと思っています。

河塚: そこが難しいところ、悩んでいるところです。

描いているときは、現地でのフィールドワークの感覚を色彩に置き換えて、ここなら触れられるんじゃないかという部分を描いています。描いたり消したりを繰り返していているので、描くのと違うみたいなのもあるんですが。

でも、何を透過するのかと問われると⋯⋯。難しいですね。

山本: 作品そのものが膜ってことでいいんですかね。というのは膜といったときに、画像を貼った層、それから、絵の具を塗った層、そういう層そのもの一つ一つが膜として積層しているのかなと思っていたんです。

けれど、そうじゃなくて、絵そのものが一つの膜で、膜のこちら側から、向こう側を見ているというイメージですか。

河塚: そうかもしれないですね。絵画自体がそういう濾し器として機能しているイメージはあります。

山本: 濾し器、フィルターですね。

河塚: フィルターによって自分が分解されて色に置き換わって濾されていき、風景に入り込んだ結果、その痕跡が画面に出てきているみたいな感覚があります。

山本: 自分を投影して、それが絵の具として定着していくっていう感じですか。

河塚: そうですね。なんで支持体そのものを透明にしないかということにもつながる話なんですが、パネルっていう強固なものだからこそ、自分が置いたものとか、失敗したものとか、違ったものをちゃんと残してくれるというのがあります。それを消すこともあるんですが、でも、何かしらその色は残っていく。

悩んで描いた過程や、うまくいかない部分がちゃんと残ってくれているのが、自分の在り方としてはしっくりくるというのがあります。

山本: そこが、ぱっと伝わるかどうかっていうところですかね。私はこの仕事をしていて、一人一人のアーティストと話をしていて思うのは、展覧会そのものにあるテーマが見る方に分かりやすく伝えられる、そうあるべきかなということ。

今回の展覧会には膜というテーマが一つあると思うけれど、むしろ古い写真からインスピレーションを受けた記憶の交錯とか、そっちのほうがいいのかなって実は考えてしまうところもあります。

膜というテーマに寄せるとするなら、もっと皆さんが膜をイメージできたほうがよいうのではないかと。例えば分厚いニスの層がボタボタと重なっているとか。そうなるともっと膜のイメージは伝わるかなとも思ったんだけどれど、これはただ見てくれの話。もっと柔軟に、河塚さんの思っている膜のイメージを伝えるために、もう少し分かりやすくしてあげたほうがいいんじゃないかなということですね。

たぶん、あなた自身もそこが一番のネックだと思っているんじゃないかと感じますがどうですか。

河塚: それはありますね。膜という言葉が合っているのか分からず、自分のやっていることが適切な言葉にまだ置き換えられていないと感じています。今回は、これまでずっと学部でやっていた『透明な膜を隔てて』っていう感覚を出したんですが、言葉の選択は今とても悩んでいる部分だと思います。

山本: これは大学院で、この後の1年間、頑張って悩み、探さなきゃいけない部分ですね。

《草むらにたたずむ》


《にぎりかけた手》 2025/パネル、コットン、油彩、蜜蝋、ジェルメディウム/242×333

《草むらにたたずむ》 2026/パネル、コットン、油彩、蜜蝋、ジェルメディウム/455×530

河塚: ここからそれぞれの絵を見ていきたいと思います。

手をモチーフに選んでいることが多いですね。近づけるものとはなにかを考えたときに、手は触れられそうなモチーフだと考え、手をトリミングして毎回入れるようにしています。《草むらにたたずむ》は蜜蝋をたくさんかけた上で、光と影の境界線の辺りに色を置いたり、置かなかったり。ぼんやり浮かび上がるところで手を止めました。

山本: 転写にはアクリル系のジェルメディウムを使っていて、その上に蜜蝋をかけて、さらに油絵具を重ねていると。 みなさん、蜜蝋って分かりますよね。ミツバチの巣を溶かして取り出したワックスのことですね。

河塚: 蜜蝋の膜感は、今のところ自分の考える膜に近いなと思っています。

山本: 私も蜜蝋の光沢感は好きですね。リンシードとか乾性油を入れると艶は出るんですが、ビカビカ光る。その点、蜜蝋の艶はすごくしとやかでっていうか、落ち着いている。そういう意味では皮膚感覚に近いものがあるかもしれないですね。

河塚: 蜜蝋は結構近いと思います。まだあまり大きい作品は作れていないんですが、挑戦したいです。

山本: この作品に写っているのは、女の子でしょうか。草原に立っているようなイメージだと思うけれど、ちょっと不思議な印象ですね。もしかして、これは像が逆転している?

河塚: 逆転はしてないです。転写するときに像が左右反転してしまうので、転写前に反転させておいて、結果的に写真で見る向きのままです。
この写真は、人の背丈ぐらいの草が生えている風景の中の1枚でした。見たときに「描ける!」と思った写真です。

山本: 「描ける」と感じたのは、女の子の人生というか、彼女の当時の心境みたいなものを透過していたんですかね。

河塚: そうですね。祖母の写真を別にすれば、これまで空き家などを訪ねて預かったアルバムは、リサーチする方法がその場所に行くことしかなくて、想像することに限界があった。本当の意味で描くことができなかったんです。

中滝でも、写真の人々と直接つながることはできないし、想像することにも限界があるのは同じだけれど、現地に住んでいる人から開拓の話を聞くことができたので、同じ土地に生きていた色が出てきた。そういった経験は今回が初めてだったので面白かったです

山本: 確かに、以前の制作も見せてもらいましたが、そのときは色が生々しかったですね。これは現地で感じた色、話を感じて生まれてきた色ということなのかな。

河塚: ここにある絵画はそういう色が多いです。雪とか、藁とか、枯れた感じ。荒涼としているものが出てきたなと思います。

山本: そういうイメージに出会うことができるということは、すごくいい経験だと思います。どうしても小手先だけで絵を描くときは「出ている絵の具で配色を」って考えちゃうけれど、本当の気持ちから色に迫れると滋味のある色になる。

《冷たき水 のぞく人影》


《冷たき水 のぞく人影》 2025/ パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム/727×910

山本: 学校か何かが写っているのかな。

河塚: この作品は同じ写真をもとに二度描いています。沼に1人の男性が立っていて、開拓小屋があって、丘の上から撮っているような不思議な構図の写真でした。一枚目は再現寄りに描いてしまい、後から「絶対違う」と思ったんです。フィールドワークで感じた「近づけなさ」が全然出せなかった。

描き直したやつは、「消しながら描く」ってことをやっていて、「近づけなさ」が出せたと思います。雪の風景とかを見ていたので、青というか、すごい寒色が出てきたなと感じながら描いていました。

《冷たき水 のぞく人影》 2026/ パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム/727×910

山本: テクスチャーもマテリアルもだいぶ違いますね。2枚目の上のほうには白っぽく見えるのは何だろう。

河塚: 転写の跡です。自分で全部塗った後に、ちょっと端が、多分、乾燥で伸縮するので、あれが出てきているって感じです。

山本: 転写するときに複数の紙を使っているからですね。金箔を貼るときに継ぎ目が見えるのを箔足っていうんですけど、そういう四角い跡が見えるのが面白いといえば面白いんだけれど、もう少し考えてみてもいいなと。1枚なら1枚のほうが格好いいし、全部正方形にして貼ってもいいかもしれないし。

偶発的な絵の描き方って、すごくいいけれど、どこかに計算がないと、「やった」ではなく「やってしまった」、「作った」ではなく「できてしまった」になってしまう。自分で作ったものかどうかという部分は考えていったほうがよいと思いました。

河塚: たしかにそうですね。転写する紙も、できたら1枚がいいなと思います。

《冷たき水 のぞく人影》 2026(部分)

山本: 同じ構図で同じ写真を貼っているんですか。

河塚: はい。

山本: たしかに、より感覚的にはなっていますね。沼の上に立つってどういうことなんだろう。

河塚: 浅い、歩ける沼なんです。

山本: 雪が積もって凍っているというわけではなく?

河塚: モノクロ写真なので分かりづらいんですが、景色は夏っぽいんです。だから雪じゃないと思うんです。その写真を見たとき、すごく没入できました。不思議な景色だなと思いました。

《原っぱとかくれんぼ》

《原っぱとかくれんぼ》 2026/パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム/910×1167

山本: この人物のフォルムはデフォルメしていないんですか。

河塚: あまりデフォルメはしていないです。これはちょっと特殊で、もともと転写してあるのは人物ない風景写真だったんです。アルバムには同じ場所に人物がいる写真もあって、その人物だけを私が描いたんです。

山本: 2枚が1枚になっているんですね。人のフォルムがちょっと写真っぽくないというか。

河塚: 自分の手で描いているからかもしれないですね。

山本: この絵の完成度は、自分の中ではどれくらいできているものですか。

河塚: 理想は、絵を見たときに、描いているものや思いが瞬間的に人に伝わるのが理想なんですが、説明しないと分からないことが多いです。

ということは何かが足りないんだろうなと思います。描いているときの感覚は近くなってきているけれど、いざ完成すると、膜のイメージや、隔たりのあるイメージが伝えきれないと感じる。それが言葉の感覚のずれによるものなのか、単に絵画によるものなのか分からないんです。

山本: 絵画はまず一番に見た目、どうしてもそこだけで捉えられてしまうので、「これ何描いているんだろう」ってイメージを与えることも大事だし、言いたいことを伝えるのも大事です。あまり難しいほうに振ってしまうと、みんなそっぽを向いてしまうので。 もうちょっとそこを突き詰めてもいいのかなと思います。
今、たまたま鹿角で出会ったということが一つのきっかけになって、単純な絵から少し一歩進んで、ちょっと複雑なものに行こうとしているように思います。自身の考えを深めながらアプローチしているっていうところかなと。

《滞在アルバム》(2025-2026)紙、糸、色鉛筆、水彩、印画紙

山本: 写真を貼ってしまうと、どうしてもフォルムは決まってしまう。それを消しながら、隠しながら、また、出しながら絵を作っているということなんですが、これは簡単そうでいて、絵として完成するにはなかなか難しい命題だと思うんです。絵そのものを描いていくときには、転写に頼らないほうが私はいいと思いますね。

河塚: 頼らない方がいいですかね。そこはとても悩んでいるところで。一から創造していくことを避けるのは、一番純粋に自分が入っていける土台をつくっているからだと思うんです。でも、そうすると色は濁ることもあるし、描きにくさもあるから、そこの割合が難しいなと思います。

山本: そういう難しいことをやるとなると大学院2年だけでは間に合わないなとは思います。

河塚: たしかに2年は短いですね。

山本: 今、この画材がベストかどうかってことも含めていろいろ考えてみてもいいと思うんですが、これまで学部でやってきたのと、今、大学院でやっているのは、画材という面ではどう違いますか。

河塚: 画材はほぼ一緒で、学部のときの流れでずっと作ってきています。ただ、写真を転写し始めたのは学部4年のときからだったので、そこから考えると2年ぐらいたっているんですけど。

山本: なんで最初から蜜蝋を使うことになったんだろう。

河塚: 蜜蝋は、私の同じアトリエメンバーがずっと使っていて、その影響があります。すごく面白い素材だなと思って使い出したのが学部4年の頃でした。

山本: そういうのって、大学色が出るんですかね。

河塚: 蜜蝋、佐賀では結構使っている人が多かったです。

山本: 普通じゃないと思うんだよな。

河塚: そうなんですか。

山本: 私がいた秋田大学では芸大譲りの特殊なメディウムを使っていましたね。写実系の人が多かったので、ハーレムシッカチフという筆跡が残らないねっとりしたニスを使っていた。そういう工夫って、もしかすれば必要かもしれないですね。
光沢を出す必要はないんだけど、がさついていると、河塚さんの言う皮膚感覚には遠くなる。 蜜蝋のよい感覚を残しながら、そういう工夫があってもいいかもしれないですね。

河塚: もっと厚みを出してもいいかなというのは、展示をしてやっと感じた部分ですね。

山本: 具体的に何を使うといったイメージはありますか。

河塚: 今のところは、単純に油絵の層を厚くするか、蜜蝋かなみたいな。

山本: キャンバスの目はどうですか。

河塚: キャンバスは今はコットンを使っていてデコボコしてます。絵の具が残りやすい布地を使って、それに炭酸カルシウムとかを混ぜながら、ぶつぶつのある支持体作りをしている。できるだけ絵の具の層が流しきれない、止まるみたいものを作ろうとしています。

山本: ちょっとテンペラ画のようなものを望んでいるんですか。

河塚: そうですね。それはあるかもしれないです。

《原っぱとかくれんぼ》(部分)

山本: 《原っぱとかくれんぼ》は漆の研ぎ出しみたいな技法を使っている。これも結構象徴的な描き方をしていますね。

河塚: はい。これは割と楽しかったです。あまり時間をかけなかった絵でした。

山本: ヤスリで削った部分とかがあり、マテリアルがきれいですね。これはパネルですか、クロスですか。

河塚: 布張りして、その上にガーゼを貼り、そこに炭酸カルシウムを混ぜて下地を作っています。

《中学3年生 迷ヶ丘にて》

《中学3年生 迷ヶ丘にて》 2026/パネル、コットン、油彩、ジェルメディウム/910×1167

河塚: これは木に登っている男子の写真。これが一番時間がかかって、格闘した絵でした。すごい手を止めるタイミングに悩んだ絵で、葉っぱがうじゃうじゃあって、どこを描くか描かないかというので取捨選択で悩んだ絵です。写真に写った木を見たとき、中滝からずっと見ていた山の輪郭や、丘のイメージが浮かんできたのでそれを重ねています。

山本: 人物像がどういう感じなのかはっきりは見えてこないんだけれど、少年ですか?

河塚: 少年です。帽子をかぶっていて、横を向いている少年像でした。

《草むらにたたずむ》(左)と《中学3年生 迷ヶ丘にて》 

山本: 《草むらにたたずむ》はなかなか分かりやすくていいですね。苦労の跡もちゃんと見えて、いろいろ試している様子も分かる。分かりやすくてよいというか、感じることができる部分があるので、これはそういう点を突き詰めるべきかなと。《中学3年生 迷ヶ丘にて》は実験として、この先どういう方向に持っていくか考えればいいのではと思います。

特にBIYONG POINTのようなスペースで展覧会をやるときは《草むらにたたずむ》のようなものは一つに固めて、「このテーマでやりました」っていうのはあってもいいかもしれない。バラエティーに富む展示をやるときは、展示室が複数ある広いところで部屋ごとに分けてやったほうが、「こういうアプローチをしているんですよ」と伝わりやすい。

河塚: なるほど。結構アプローチを変えていたので、ちぐはぐな絵が並ぶなっていう予感はしていたんです。

山本: その感覚はメモしておいて、同じ轍は踏まないようにしたほうがいいですね。展覧会の完成度は、一つの空間で一つ決まってしまうので、そういう部分は考えたほうがよい。

河塚: 自分の中の感覚に基づいてアプローチが違うものが、鑑賞者にどう伝わるんだろうという好奇心があって、あえて実験段階だけど出そうという部分もありました。

山本: 実験的なものを自分の中で一つ一つ考えていると思うので、それは突き詰めていく姿勢を持って行くのがよいと思います。漫然と描いていると、同じように見られてしまうので。

かけた時間はちゃんと絵に出てくる。うまくなる必要はないので、丁寧に突き詰めていければいいんじゃないかなと思います。

何かがいないようでいる

会場に集まった方からは複数の質問が出ました。

《ひだまりの中の窓辺》 2025/パネル、コットン、油彩、蜜蝋、ジェルメディウム/318×410

質問者A: 河塚さんが写真と対峙するときに、自身が透明な膜になって、それで対峙して、それが色に表れているってことはあるんですか。

河塚: 自分が透明になるって感覚はないんですが、他者の写真に自分がどこまで入っていけるのかは悩んでいて、自分の主観的な部分で作り込みすぎないことは意識しています。

質問者A : フィルターは通しているわけですよね。

河塚: そうです。

質問者A : そのフィルターを通して背景を抽象化し、こういう色にするっていうことは、自分の膜を通した何かが色になっていると思ったほうがよろしいんですかね。

河塚: 確かにそうですね。自分を通り抜けている感覚はあります。そのときに、透明になっている感じがあるかもしれないですね。

《にぎりかけた手》2026(部分)

山本: なかなかいいところを突いてきましたね。透過するっていうのがなかなか難しいですよね。感覚的なものになってしまうから。
他者の記憶に塗るっていうのはなかなか難しいけれど、これはこれで一つ完成している結果なので、やるべき方向は見えてきたと思います。

質問者A : 写真から呼び寄せて、それを絵に起こしてという感じがこの中に現れている気がします。《にぎりかけた手》や《ひだまりの中の窓辺》も青白くてどこか霊みたいな感じにも思えたりして、ゆらゆらしているような印象を持ちました。主観的なもので、見る人によっては全然違うとは思うんですけれども。

河塚: 私は気配みたいなものを大事にしていて、顔がアップになっている写真もあるし、そういうのを描けばインパクトがあって分かりやすいんですけど、そういうのはあまり描きたくないと思ってしまう。たぶん、何かがいないようでいるってところに惹かれるんだろうと思っていて、絵も抽象的になっていくのかなと思います。最近、ホラー映画の話をするんですが、今の話もそれに近いのかなと思いました。

中滝色と、これからの色

質問者B: 私は色について気になります。今の感覚で、フィルターを通して自分から出た色がこれらの作品なんだろうなと思いました。この後いろんな経験をして、またフィルターを通したときに、今使っていない色が出てくるのかなって思いました。

山本: 実際、どうでしょうか。学生のときとは全然色違いますよね。まさか秋田に来て暗い色が好きになったとか、そういうわけじゃないですよね。

河塚: そうじゃないんですが、中滝の人が見に来てくれたときに「こういう色分かる」という反応でした。

山本: 中滝色?

《冷たき水 のぞく人影》 2025(部分)

河塚: 大湯とか、あの辺りで制作されている方が見に来てくれたときに、荒涼とした原っぱの感じを分かってくれる人が何人かいたんですね。私はあまり自覚がなかったんですが、それを聞いて、中滝を扱っているから、荒涼感がある色が出てきたんだと思いましたね。あまりきれいに収められないというか。

山本: 世の中、そんなにきれいな色ばかりがあっちこっちにあるわけじゃない。特に人が生活した場所の色は、そこでしか感じられないものなのかもしれないですね。私はそういうものに目を向けて絵を描いたことがないので、ちょっと分からないけれど。

ただ、そういう色の変化、そういう体験をしていくことってとても大事で、これからどんどんそういう色が生まれてくるんじゃないかなと思います。

河塚: 客観的に見るというのがなかなか自分でできなかったので、山本さんをお招きして、自分の絵がこういうふうに見られているんだというのが分かってよかったです。

自分では納得している部分でも、鑑賞者がそれを見たときに、「あ、そうは思わないんだ」ということが多かった。時間が空かないと自分の絵って客観視できないので、冷静になって自分の絵を見る機会になりました。

山本: そうですよね。自分で描いた絵を一ヶ月放っておいてってなかなかできないですからね。展示という一つの目標があれば、それまでは突っ走るだけになるから。

河塚: 本当に。視野が限定された中でできてくるので、1カ月ぐらいたたないと冷静に見られないんだなと分かりました。

山本: 私もいつも苦しんでいるんだけれど、原稿を書いたりするとそうなってしまう。3日ぐらい放っておくと冷静に見られるんだけれど、書き続けるとぐだぐだぐだになってくる。本当、そういうことの繰り返しですね。

河塚: はい。たぶん、その周期で絵が変わってくるんだろうなと思います。

山本: そういうものづくりが好きでしょうがないし、やっていきたいでしょう。

河塚: そうですね。いいもの作らないとって感じです。

作品写真:越中谷優一

Profile ゲストプロフィール

美術史家

山本丈志 Takeshi Yamamoto

1961年 秋田県北秋田市 出身
1984年 秋田大学教育学部卒業
1985年 秋田県立花輪高等学校教諭
1994年 秋田県立近代美術館学芸員
2014年 秋田県観光文化スポーツ部文化振興課副主幹
2019年 秋田県立博物館学芸員
秋田蘭画・近現代の秋田の絵画・写真を対象に調査研究を重ねる。
VOCA展、日経日本画大賞展の推薦委員を歴任。
県展デザイン部門運営委員、ギャラリーブルーホールディレクターを務めている。

Profile 作家プロフィール

秋田公立美術大学大学院 複合芸術研究科 1年

河塚彩和 Sana Kawatsuka

福岡県出身。佐賀大学芸術地域デザイン学部芸術地域デザイン学科西洋画専攻卒業後、2025年より秋田公立美術大学複合芸術研究科に在学。
個人や地域に残されたアルバムを起点に、「描く」という行為を通して、アルバムに写る他者や、過去と現在のあいだに立ち上がる距離や隔たりに向き合っている。
土地での滞在や人々との出会いを制作に重ねながら、絵画を「膜」として捉え、触れることのできない他者の記憶とどのように応答し得るのかを探究している。

Information

河塚彩和 個展「透明な膜をへだてて」

*本展覧会は終了しました*

■会期:2026年2月28日(土)~3月29日(日)
    入場無料、会期中無休
■会場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT
   (秋田市八橋南1-1-3 CNA秋田ケーブルテレビ社屋内)
■時間:9:00〜17:30
■在廊日:3/8(日)、3/22(日)
■主催:秋田公立美術大学
■協力:CNA秋田ケーブルテレビ
■企画・制作:NPO法人アーツセンターあきた
■お問い合わせ:NPO法人アーツセンターあきた
TEL.018-888-8137 E-mail bp@artscenter-akita.jp

※2025年度秋田公立美術大学「ビヨンセレクション」採択企画

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた

早坂葉

2000年山形県酒田市生まれ。秋田公立美術大学アーツ&ルーツ専攻卒業。
大学卒業後、美術家/ラッパーを称し、2年間の睡眠活動、散歩活動などを通じて自己の涵養に取り組んだ後、2025年よりアーツセンターあきたで社会連携事業を担当。
好きな漫画はチェンソーマンです。

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