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イメージの再創造から「動く森」へ
長坂有希による二つのプロジェクトの間に

2020.10.03

江戸時代後期の紀行家・菅江真澄が描いた「木」に着目した展覧会「木:これから起こるはずのことに出会うために」のリサーチをきっかけに、生態系の移ろいに眼差しを向け、「移動する植生」を追って旅をする長坂有希の「旅」と「創造」の軌跡を、人類学者・石倉敏明がレビューします。

イメージの再創造から「動く森」へ:
長坂有希による二つのプロジェクトの間に

1. 菅江真澄の図絵を再考する
 人はなぜ、自分が生まれ育った場所ではないどこかへ、旅をするのだろうか。旅は、衣食住という生活要件を揺るがし、慣れない風習や景観に感覚をさらす。旅は日常の営みを撹乱し、歴史についての認識に亀裂を走らせる。様々な疲労や、混乱や、出費が生じることは自明であるにも関わらず、私たちは好奇心や仕事の必要に駆られて旅をする。もちろん、難民や移民がそうであるように、政治的・経済的な事情によってやむなく移動を続ける場合も少なくない。旅や移動は、人間性の深い部分に潜む未知の現実への憧れや、自由への希望と結びついている。
 どのような社会も、そのルーツに移動の記憶を秘めている。私たち現生人類は、決して一つの場所に留まり続けてきたのではなく、常に何らかの理由で断続的な移動を続けてきた。直立二足歩行という長距離移動に適した身体を手に入れた人類は、共通の故郷であるアフリカからユーラシア大陸を経て、オセアニアや太平洋の島々へ、さらにベーリング海峡を超えて南北アメリカ大陸にまで拡散していった。移動や旅は、定住に先立つ人間性の要件と言っても良い。移動することがなければ、私たちの祖先は、数々の危機や変化を生き延びることはできなかっただろう。ユーラシア大陸の最果てに位置する日本列島においても、旧石器時代以来、三万年以上におよぶ移動の記憶が、各地に刻まれている。極東の日本列島では、多様な集団が絶えざる移動や交易・交換を続けることで、長い時間をかけて文化的混淆を続けていった。
 住民が自由に旅をできる状況ではなかった江戸時代においてさえ、日本社会は東北や蝦夷地を旅した、菅江真澄のようなユニークな旅行家・観察者を生んでいる。菅江真澄は、故郷の三河(現在の愛知県)を出発して中部地方へ、そして北東北に北上し、そこからさらに蝦夷地(北海道)に向けて移動生活を続けつつ、最後は北東北の各地に滞在し、秋田で生涯を遂げた。彼は、自身の先駆者である日蓮聖人の弟子・日持上人や、各地に膨大な仏像を残した仏師・円空といった先人たちのことを、常に意識していたという。真澄によって残された旅人の知覚と思考の痕跡は、日記や地誌に散りばめられた図絵や文章、和歌として、現代に至るまで貴重な博物学的価値を伝えている。江戸後期という時代にあって、彼は当時の知識や物流の集約地であった京や江戸には長居することがなく、後半生の生涯をもっぱら「北」への旅と観察に費やし、そこからユニークな表現の空間を立ち上げたのである[1]。
 それまでほとんど歴史的記録が残されてこなかった北方の文化を、彼は自身の眼で観察し、数多くの日記や地誌、随筆を編んだ。しかも彼は、まだカメラも録音機もスケッチブックもない時代に、筆と紙をつかって景観や風物を描き、後世に活き活きとしたイメージを残してくれた。彼が描いた色彩豊かな風景画・博物画には、江戸時代後期における地域社会の様子だけでなく、当時の人びとの信仰や伝承、動植物との深い関係性が、見事に描き出されている。
 柳田國男や宮本常一を始め、真澄の伝えた地域の伝承知に学び、日本列島各地を旅した知識人は少なくない。明治時代以後、真澄の著作や表現を読み解き、その方法論を継承することによって、近代的な学問としての民俗学・地域史学・考古学といった学問領域が発展してきた。しかし、真澄の残した図絵に関しては、ごく少数の例外を除き、まだ民族誌的な記録以上の読み取りがなされていないのではないだろうか? 真澄が描いたイメージや表現を芸術的創造の視点から再考し、そこから新たな可能性を汲み取っていくとすれば、いったいどのようなアプローチが可能だろうか?

2.「写す行為」としてのドローイング:長坂有希による再創造
 菅江真澄の描画には、川・海・湖・泉などの水が頻出し、土壌や岩石などの地質と共に、特徴的な樹木の形が記録されていることが多い。それらの多くは、ゴツゴツとした荒々しさや、画面を横断する奇怪な形状をとどめている。あらかじめ様式化された花鳥風月の美しさに慣れた都会人の眼には、これらの田舎の景観は無骨に、味気なくみえるかもしれない。しかし、果たして本当にそうだろうか?
 アーティストの長坂有希が、2019年の秋から秋田に滞在して行ってきた菅江真澄に関する追調査や再制作の方法は、こうした紋切り型の感想を抱きがちな鑑賞者の感性を、粉々に破砕するような、シンプルな肯定感にあふれていた。長坂はまず、多くの人がそれを菅江真澄本人のものと錯覚しがちな写本の類から視点を移し、あくまでも彼の自筆図絵という媒体のみを通して、そこに描かれた現実をとらえ直そうとする。さらに、菅江真澄のテキストに描かれた、旅人としての彼の知覚や情動をなぞるかのように、実際に真澄の訪れた場所に赴き、それぞれの土地に潜在する記憶や生命活動の痕跡を辿りながら、描かれた特徴的な「木」のイメージを「写す」ことに挑戦する。

長坂は真澄が描いた「木」と向き合い、「写す」行為を通して真澄の意識を取り入れていった

 2019年から20年にかけて、秋田市内で行われた長坂有希の展示(「木:これから起こるはずのことに出会うために/Trees: Audition for a Drama still to Happen」2019年11月16日~2020年1月12日、秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT)では、菅江真澄がかつて描いた七点の木の図絵を原画として、改めて抽象化された線によって描かれた木のドローイングが展示された。しかし、長坂の作品が単に原作を真似た複製イメージではなく、習作的な模写にもなっていないことは明らかであった。長坂は、真澄のものとは異なる描線を保ちつつ、彼が描いた「木」のラインを意識的に描き直すことで、オリジナルの図絵やその複製写本に対するラディカルな距離を表現する。その創作姿勢は、あえて図絵のイメージから切り離され、会場内で閲覧できるような状態でテキストのみを掲載した冊子の冒頭で示された簡潔な主張によって言い尽くされている。

約二百年前にこの土地を歩きまわり、多くの物事を書き残してくれた菅江真澄へ、そして、個として存在しながらも他者や他の生きものたちとつながる勇気を持つ私たちへ[2]。

 長坂はこの冊子で、菅江真澄が書き残した記録を手掛かりとして、彼や彼の描いたものたちが生きた時代や空間を想像しつつ、膨大な時間の層の中に埋もれた出来事の膨大さに思いをめぐらせている。彼女はそこで、住民でも旅人でもなく、いつまでそこにいるかも定かでない一時的な居住者として佇みながら、日記や地誌、図絵を描く菅江真澄という個人に対峙しているかのようだ。また、会場に展示された木々のイメージは、明らかに菅江真澄の記録に寄り添っているものの、敢えて異なる筆致を施すことで、時間によって大きく隔たれた現実を異化しているようにも見えた。
 さらに、真澄の眼差しの先にある「他者や他の生きものたち」の暮らしぶりを観察し、「写し」によって真澄の表現の純粋さを異化することによって、長坂はアカデミックな記録からもアーティスティックな表現からも零れ落ちてしまう、生命と非生命がせめぎあう現実の渦中に飛び込んでゆこうとする。
 重要なことは、そのような現実の裂け目は、もともと真澄の表現自体に含まれていたものであるということだ。長坂はただそれを、自らの足で歩き、目で見直し、手で描き直すことで、シンプルに増幅しようとする。つまり、真澄の視点に個人として向き合い、理解を深めようとするなかで、場所性そのものと再会し、表現上の新たな様式化へと、自然に導かれているように見える。たとえば「星山清水のねずこの木」は、美郷町の本堂城回・星山家の敷地にある樹齢四百年の老木を描いた作品で、真澄が「月の出羽路・仙北郡二」に描いた時代を思いつつ、この木の来歴やその後の出来事を思わせるイメージである。真澄の図絵を見ると、この木の前に大きな池があったことがうかがえるが、現在はその規模はほんの小さな範囲に縮小している。かつて豊富な湧き水を湛えていたこの土地も、老木の根元から湧き出すわずかな清水以外は枯れてしまっていた。長坂は、この作品について、次のように書いている。

人々は昔、水を求めて井戸を掘り、その周りに木を植えて、木の根が水を吸い上げることで地下の水脈が変わり、井戸に水がもたらされることを願ったそうだ。また、すでにある湧き水を守るために、周りに木を植えたそうだ。清水が先だったのか、木が先だったのかについての答えを私は見つけることができなかったが、二つのものが相互関係を保ちながら共存していることは見て取れた。その関係性は、清水と木を守り、湧き水を使い続けてきた人々によっても支えられてきたはずである[3]。

 井戸を掘り、ねずこの木を植えた現地の居住者は、地下の目に見えない世界を想像することで、たしかに水脈という次元に働きかけようとしたに違いない。そのとき、清水は鉱物や植物の間で、渾々と湧き出していた。そして、異なるもの同士が、相互関係を保ちながら共存することを、真澄自身もたしかに描いていた。二百年前にこの地を訪れた真澄の足跡を追うように、長坂は同じ場所を訪れ、清水と木の絡まり合う関係を観察する。二百年の時を経て大きく変化を遂げているが、そこには真澄が見たときと同じ木が屹立し、彼女を迎えてくれたことだろう。

「木:これから起こるはずのことに出会うために/Trees: Audition for a Drama still to Happen」(2019年11月16日~2020年1月12日、秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT)

 観察と「写し」に基づくこのような長坂の方法論は、人類学者のティム・インゴルドが述べる「徒歩旅行」の説明を思い起こさせる。徒歩旅行は、あらかじめ海図上に配置された定点から別の点へと航海を続ける船の旅とも、ある地点から別の地点をつなぐ空中の最短経路を横切る空路の旅とも違っている。これらに対して徒歩旅行は、「以前に通ったことのある道を誰かと一緒に、あるいは誰かの足跡を追って辿り、進むにつれてその行程を組み立て直す」試みであると、インゴルドはいう[4]。
 菅江真澄が生涯をかけて行った旅もまた、実はこのように絡み合った行程や時間の再編成の連続であった。彼が断続的に行った「徒歩旅行」は、実際に彼が見聞きした自然界の風物、そしてさまざまな先人の言い伝えや断片的な知識を総合し、絵画と文章によってみずからの行程や知覚を表現する行為と一体になっていた。菅江真澄はそのとき、今日のアーティストや人類学者・民俗学者のようにある地域に滞在し、リサーチを通して制作する主体を先駆けている。そして、菅江真澄の旅を辿り直し、彼の描いた樹木を描き写すとき、長坂もまた徒歩旅行者のように先駆者の足取りを見つめ、その方法論をなぞることで他者や他の生きものたちとの関係を再構築している。