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「『応答』〜SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後〜」の報告2

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINTで開催された展覧会「『応答』〜SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後〜」。開催期間中の1月には、企画者である藤本悠里子による報告会が開かれました。「展覧会の外にあるアーティストの創作活動との交差」を考察した報告会のレポート(後半)です。

キュレーターやコーディネーターは、新しい表現が生まれる現場をどう創造するか。またその現場にどう関わることができるか

秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT(ビヨンポイント)で開催された展覧会「『応答』〜SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後〜」。秋田公立美術大学大学院2年に在籍する藤本悠里子の企画であり、修了研究報告展でもある本展の後期には、夏に秋田に滞在したアーティスト4名(寺岡海、神馬啓佑、船川翔司、来田広大)による展覧会「秋田|Akita」が開かれました。開催期間中の1月24日(木)に行われた報告会のレポートをお送ります。

報告1はこちら

「『応答』〜SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後〜」の後期展覧会「秋田|Akita」

今ここに見えているものだけが滞在の成果ではない

藤本 ここBIYONG POINTで開かれている展覧会は、本来は予定にはないものでした。成果発表を求めないことを前提にした滞在だったので、アーツセンターあきたから展覧会をしないかと依頼を受けた時は、どう構成すればいいか戸惑いました。アーツセンターからは、藤本がどういう考察をするのか、またアーティストたちの滞在の続きを見てみたいということだったので、今ここに見えているものだけが滞在の成果であるようには見えないように展覧会を構成しようと考えました。

「『応答』〜SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後〜」のオープニング。左から神馬啓佑、船川翔司、寺岡海、藤本悠里子、来田広大

前期「Out of Exhibition」では、作品制作を目的としない「SUMMER STATEMENT 2018」の滞在やトークイベントを経て、どういうことがあったかの記録物を会場に展示。私ができるだけこの会場にいて記録資料を見せ、整理したものを随時残せるような展示にしました。アーティスト4名には前期の終わりにもう一度来てもらい、後期に向けて搬入と作品制作をしてもらいました。

来田さんは、秋田公立美術大学のグラウンドで鳥海山の鳥瞰図を描くというパフォーマンスを行い、船川さんは男鹿の寒風山にもう一度行って、作品を制作しました。今回、この後期の展覧会で4名全員が秋田で滞在したことを踏まえて制作した新作を発表しています。

藤本 そして、冊子を作ったことは重要なことだったと思います。私という主語の人物が秋田に来て、いろいろなことをして、京都に帰って、またいろいろなことを考えてという、作品とは関係ない日記のような思い出のようなテキストです。アーティスト4人がそれぞれテキストを書いているんですが、それらを統合して私という主語にしたのは、滞在していた場所の近くのコンビニで働いてるおばちゃんがきっかけでした。
おばちゃんはアーティスト4人が夏の間に滞在していたことを覚えていて、4人でコンビニに入ったら「あなたたち、夏も来ていたよね」と。一人で行っても気づかなかったのに、みんなで行ったら気づいた。4人の集団がひとつの人称として捉えられていたことがきっかけで、一人の人物を主語にしたこの冊子を作りました。すべて私という主語の、誰なのか分からない人による秋田滞在を経ての物語みたいなものが書かれています。

後期の展覧会はこの冊子ができたことで、作品だけが重要なのではなく夏の滞在から続く物語も同じように価値があるというように、滞在中の生活と作品とをつなぐアイテムになっていると思います。

夏の滞在時の出来事やその後などを綴った4人のテキストを合わせ、一人称の語りとした『秋田|Akita』

何かが生まれ出るプラットフォームを作る

藤本 「新しい表現が生まれる現場をどう創造するか、またその現場にどう関わることができるか」という問いについてですが、今回の企画の特徴として、複数回に分けて活動の記録を公開したり報告をする機会を持ったということが挙げられると思います。トークイベント、展覧会、滞在、ウェブサイトなど私はこの企画の中で複数のパターンで発表の機会や状況を創出したいと思っていました。秋田で、そして京都で発表し、発表の仕方もトーク、展覧会、ウェブなど何かひとつで全部分かったような構造にはしたくなくて、あえていろいろな方法で発表するという手段を選びました。

このやり方は、この企画の最終的な成果はこれですとはいつになっても言えないということでもあります。なので側から見れば何が成果なのか分からないし、何を見てほしいかが分からないという言われ方もします。でも今回これをやりたかったのは、アーティストと企画者がこれは見るべき価値があると定めて、鑑賞する人はそれを受け取ることしかできないという構造を変えてみたかったから。価値を持っている側と鑑賞する側という境界をなくして、できるだけアーティストと鑑賞者、あるいは眺めている人、関わっている人などがディスカッションできるようにと考えました。その先に、アーティストは価値を持っていて鑑賞者が受け取るという境界がなくなるような関係が築けないかと期待しました。企画自体は、第三者に展覧会を見る以外の芸術活動との出会い方を提示する可能性を示す試みになったのではないかなと思っています。

藤本 結果的に、4人とも新作を作ってくれたのは素晴らしいことだと思います。もともと要求していなかったことですが、滞在で得たことを作品に落とし込んでくれたのは私が望んでいなかったとしてもとても重要なことだったと思います。
来田さん、船川さんは東北、秋田という土地で新たな素材を獲得したうえで作品に昇華しましたし、神馬さん、寺岡さんはこれまでの自分の生活や制作のスタイルについて見つめ直し、新たな志向を得たということが新作の制作につながったのではないかと思います。

私がアーティストに対して行うべきことは、物理的な移動を提供するか心理的に考え方を変化させるような転換を起こすかというような機会を設けることだったなと思います。それは複数の専門家と交流するような機会を設けたり、これまでの活動を言語化する機会を設けたり、共同生活できる場所やスタジオを用意する、記録を残して自分たちの活動を振り返る媒体を用意する、といったことだったと思います。
なので、私がやったこと自体は何か成果を生むことに直結することではなく、何かが生まれてくるようなプラットフォームを作ること。あるいは、アーティストを招聘するための条件付けを行なったことに近いかなと思っていて。私が作ったプラットフォームの上でアーティストや滞在に関わってくれた人たちとの議論が積み重なって何か成果として見えてくるのが今回の活動だったのではないかと思います。

企画者・藤本悠里子による報告会後半は、指導教官である服部浩之氏とのトークが行われた

アーティストと鑑賞者の概念的な立場をシャッフルしたかった

前半の藤本の活動報告を受けて、後半は服部浩之氏(秋田公立美術大学准教授)と、BIYONG POINTでの展覧会にコーディネーターとして関わった岩根裕子(アーツセンターあきた)も加わり、トークが行われました。キュレーターであり藤本の指導教官でもある服部氏は、この企画をどう見ていたのでしょうか。

服部 「SUMMER STATEMENT 2018」について断片的にいろいろなところを見てはいるんですが、僕自身はアーティストの滞在にはほぼ立ち会っていなくて。この企画において、藤本さんはアーティストと鑑賞者の一方通行な関係に疑問を持っていると、アーティストは価値を提示する人で鑑賞者はそれを受け取る人という関係をシャッフルしたいと思ったということなんですが、それをアーティストはどう思っていたのか。今回、この展覧会でがっつり新作を作ったわけだけれど、藤本さんの投げかけやこの取り組み自体に対して、アーティストはどう思っていたんだろう?

藤本 関係性のシャッフルを起こしたいのだということ、秋田ではそういうことが必要なのだということはアーティスト側には伝えて了解の上で展開していました。でもそのことについて、私と同じように彼らが理解していたとは思っていない。私と同じようにそれを目的に滞在していたとは思っていなくて。

来田さんはこういった環境で制作することには慣れているので、土地の人と関わることが企画者から求められることであり、自分の作品に影響していくことをよく理解して滞在していたと思います。他の3人は、これまでの自分たちの合宿はかなりわがままで、周りを意識せず自由にやれていたんだと今回気づいたと言っていました。京都ではされないような突拍子もない質問を一般の人から受けたり、飲み会に学生がいたのは面白かったと言っていました。私は鑑賞者とアーティストの概念的な立場のシャッフルを望んでいたんですが、アーティストは、自分と秋田で出会った人という関係性の中で見ていたなとは思いました。

服部浩之(秋田公立美術大学准教授)

服部 そういう時に、アーティストはどういう存在だと思ってる?シャッフルしようとか、関係させようと思うとか。どういう存在だと見ている?藤本さんは、何を求めていたのかな。

藤本 何を求めていたかというのは、活動の中でよく聞かれました。求めたことは一体何だったのかと聞かれるんですが、まだはっきりした答えができなくて。アーティストで言えば、アーティストは彼らでなくとも、例えば彼らの滞在中に京都から自転車で来た人でも、ミュージシャンでも別によかったと言うこともできる。今回この4人を呼んだが、アーティストを呼んだというよりは自主的に夏の滞在をして個人の制作とは別にそういう時間の使い方をしている人を呼んだ。作品を制作する「アーティスト」でなくてもよかったけれど、彼らである必要はあったという答え方になると思います。

藤本悠里子(秋田公立美術大学大学院2年)

オーガナイズした覚えはなくて、結構ほったらかしに

服部 じゃあ、ちょっと質問を変えてみよう。SUMMER STATEMENTは尾道で自主的にやっていた活動だったけれど、今回秋田に呼んでこういう形になったことで、恐らく今後、彼らがSUMMER STATEMENTを続けるかどうかなどいろんなことに影響を与える気がするんですよね。それについては話しているのかどうか。

藤本 それは、ちょっとだけしていて。船川さんはこの活動をだらっと続けてみてもいいと言っていて。次はどういう形になるか分からないけれど、成果を求めずに何か共同生活をしてみるという試み自体は残るような気がします。

服部 こういうふうに、依頼をすること、アーティストを呼ぶことが何か作用を及ぼすということは最初考えていた?来て欲しいなと思った時に、何か作用を及ぼすとは思わなかった?

藤本 最初は考えていませんでした。トークイベントの時、神馬さんは、今回私が招聘したことでつなぎとめられたと思ったという発言をしていました。これまでの自主的な滞在だったら来年やったりやらなかったりで、活動に対する距離感や熱意が離れていく状況ではあったから、今回こういった形で活動したことでつなぎとめられてよかった、と。形が変わっていくという、よくない面もきっとあったと思うのですが。

服部 それ「よくない」のかな?そこに可能性があるんじゃないのかな、もしかしたら。そこに他人が関わることで変化が起きる。作家は別に、ネガティブには捉えていないんじゃないかな。

藤本 そうですね。

服部 誰かが自主的にやっていることを、悪い言い方をすると取り込むことってすごく意識しないといけないと思うんですよね。そういう意味ではチャレンジングなところはあるとは思うんだけれど、結果としては、結構よくできたアーティスト・イン・レジデンス・プログラムに見えるんじゃないかなというところも実はあると思う。恐らく最初に展覧会とか成果を出すことを目的としないことを明確にしていたことによって、結果的にありとあらゆることを試すことができた。レジデンスでやられる大体すべてのことが結果的にすべて実践されて。藤本さんにとってはいい機会になったと思うし、作家の人たちにとっても恐らくそれ自体は小さい実験的なものであったとは思うけれど結果的に、意外と、よくできたレジデンス・プログラムみたいになってもいるなと。

展覧会自体は面白いと思うし、作品もいいと思う。求めている何か、は見えたのかな?アーティストにとっても責任を果たしやすい形にはなったとは思う。藤本さんには、こうなってみて、どう思ってるの?ということを聞きたいかな(笑)。

藤本 企画を振り返ってみた時に、ものすごくオーガナイズされているように見えるかなとは思っていました。でも私自身はそんなにオーガナイズした覚えはなくて、結構、ほったらかしにしていたし。でも、やったこと自体は場当たり的なことが多かったんですよ。その時々のこと、トークひとつとっても重要なことと考えて、場当たり的にでも切実的に考えながらやっていった結果、ウェブサイトもできたし、トークやったし、展覧会やったし、みたいな。

プログラムとして整頓されたものは作りたくなかった

岩根裕子(アーツセンターあきた) 私は、アーティストたちが夏に滞在している様子も見ていたし、藤本さんやアーティストの4人が展覧会に落とし込む時にどうしたらいいか悩み、その場その場で一生懸命に考えて、それを積み重ねていく過程も見ていました。夏の滞在時に展覧会をしませんか?と依頼したけれど、そもそも予定していなかった展覧会をすることに対して悩む様子を見ていて、本当に依頼してよかったのかと感じることもありました。

そんななか、1月8日から14日までの滞在制作中は会場構成は決まっているものの、これまでの背景や「夏の滞在」というところが見えないままインストールが始まったんです。作家たちも、藤本さんも何かつなぐものが必要だと思いながらオープンが近づき、結果としてできたのがこの冊子だった。コンビニのおばちゃんのことなどを話していて生まれたものだけれど、作家たちはそこの部分を藤本さんに作ってもらいたかったのでは?ということも感じました。

今回、夏の滞在を展覧会に落とし込むことは、各々の作品を持ち込んだグループ展ではないことは分かっているけれど、グループ展ではない形にするにはどうしたらいいのか作家だけでなくキュレーターが関わる余地が見えたのかなと思います。そこらへんは、藤本さんはどう感じていましたか?

藤本 展覧会についてどういうまとめ方にするかはウェブ会議で何度も話し合っていて、でも私はプログラムは作りたくないという態度をずっととっていて。プログラムとして整頓されたものは作りたくない、完全なオーガナイズはしないとは言っていました。しかも、もともとがあの自主的な活動から始まっているので、自分がどれぐらいそこに介入していいのか計りかねていた時間がすごく長かったような気がします。夏の滞在中も彼らが夜まで話し合ったことを翌朝に聞かされる、それで物事が進行していく。偶然的に何かの要素が加えられて転がっていくのが、今回の特徴だったのではないかなと思います。私は自分が統括する人としての意思をどこまで反映させていいか分からなかった。ずっと考えていて、様子を探り合っている間にアーティスト側から提案がきた。私はそれに対して「それや、そこや」と思ったので、もう任せて、距離を置いた感じだったと思う。でもアーティストは私の方からこういう配置で、こういうコンセプトでという指示を最後まで期待してくれていたんだと思います。

「SUMMER STATEMENT 2018」は、作品制作を目的としない滞在のはずだった

秋田であるということを大事に考えた

服部 なるほど。なんなんだろうね。なんかね、僕がベネチア・ビエンナーレのプランを描いた時に、なぜかは分からないけれど書かなくていいことを結構書いているんだよね。合宿して作りますとか、展示に関係ないことを結構書いている。なんでそういうこと書いたんだろうなと思って、そして藤本さんの企画を見て、なんでこんなことやってるんだろうなと思っているんです。通常は表に出さなくていい部分、見えなくていいと思われている部分、見えた方がいいと思われていない部分を提示したいという欲求って、なんなんだろう。なんなんですかね。

プロセスが大事であるということと、プロジェクトであるということは似たようなことだけれど、グループ展ではなくて何かを協働で築いていく過程自体をどう伝えていくかという時に、無理やり、本当は見せなくていいものを見せないと伝わらないんじゃないかというのがあって。でも本当は企画書に書かなくても、それは常に起こっていること。何か作る時はプロセスをどう踏むかが大事であることは誰だって分かっている。

でも大体、提示できるものはある種の結果で。観客とアーティストの関係につながっていくのかもしれないけれど、作っていく時、作る行為自体に戻る気がする。作る行為みたいなものを伝えたい、という気はするんですよね。その可能性というのは誰にでも開けているかもしれない。難しいな。今、まとめる気などまったくなく話してるんで。

本当はシンプルじゃないですか。こういうことをやりますという目標を掲げてしまった方がシンプルで、見えやすいんだと思うんですよね。でもあえて、見えにくいところに価値があるんだということを言いたいのは、何なんだろうね。何をしたかったんだろうというのを、もう一度聞いてみたいな。

藤本 この企画では、秋田であるということを大事に考えていて。それはこれまで京都を拠点にしていたということもあるんですが、京都だと成果を見せることを重要に考えて、スペースのこととか、評価を受けること、アーティストがどういう発表の仕方をするか、成果をどう見せるかについてチャレンジしていると思うんです。でも秋田に来たら、どのように作るかが大事だなと思えたというのがあって。

秋田に来て思ったのは、秋田の表現というか秋美の表現とか落とし込み方みたいなものは、言い方は悪いですが何か呪いを受けているように見えるんです。それは、特にグループワークの時に、人が集まってとか、コミュニケーションしてとか日常とは違う視点を得てというなんとなくコミュニティ創出系の落とし込みに寄っていく傾向があるなと思って。

今回の企画がもし夏の滞在だけで終わっていたら、それに近かったのではないかなと思うんです。そこで終わったら、ただ交流を生むところでおしまい。でも私はそれに加えて批評性を生みたかった。秋田はコミュニケーションや交流する場を生むところまでは達成するけれど、それについて批評性を持ってディスカッションするところまでは発展していないなと思っていたから、ディスカッションを生みたくてトークイベントをして、別の議論をぶつけてみたり。コンテンツを増やしたり、発表の形式を変えることとか。交流を生んだ上で批評的な何かがディスカッションによって生まれる場所を生み出したいと思っていました。

藤本 アーティストが作品を作るということはアーティスト自身が批評性を持ってものを出すということだと思うので、秋田でもそこまで持っていきたかったんです。批評が起こるのを前提としてものを置くのではなく、交流の場を作るということでもなく、私は交流の場から批評性が生まれるところまで秋田で持っていくことをしたかったのだと今思いました。

服部 なるほど。それで、生まれた?

藤本 生まれたなと思います。期待以上に。何か結論を得た話じゃないですけれど秋田でもいろんな人と話をしたし、京都の人たちともディスカッションをしたし、関わってくれた人たちが何かしら交流して、楽しかったねよかったねじゃないところまでみんな考えを深めてくれるような関わりをしてくれたことはよかったなと思っています。

キュレーターやコーディネーターが関わることで何かが発生する可能性がある

三富章恵(アーツセンターあきた) 純粋な疑問というか、沸いた質問と感想について述べさせてください。アーティストたちをほったらかしにしたかった、知らず知らずのうちにオーガナイズしてしまったというのは、コーディネーターといわれる人が関わってしまったがために、この性質としてどうしても整えてしまったという状況なのかな、という疑問を抱きました。そうであれば、整えてしまうことを意識して動いていくことを考えなければならないのかな、とも思いました。

感想としてですが、アーツセンターから展覧会をやらないかと打診されて困惑したというのは、当然のことだったと思います。プロセスの価値を突き詰めていきたいということを目的とした夏の滞在をそれで終わらせてしまうのはもったいないなと思い、他者に伝えるために言語化する、ビジュアル化する試みとしてBIYONG POINTで展覧会をしたらいいのではないかと思ったことを個人的に振り返っていました。

藤本 コーディネーターとしてアーツセンターあきたに入ってもらって助かったというのはあると思います。大きいプロジェクトではない分、その場その場の状況に応じて決断を変えていける規模感でやっていたので、打ち合わせをしながらも組織としての決断ではなく個人として、締めた方がいい緩めた方がいいと判断できた。一人でやっていたら緩みすぎていたのではないかなと思います。私がうまく決められなくても、岩根さんと石山さんが先のことを見据えて現実化していくというバランスは今回はよかったんじゃないかと思います。

服部 声を掛けてもらえること自体、重要なことなんじゃないかなと思いますよ。基本的にね。誰かが何かした方がいいと思えるってことが、すごく重要なんじゃないでしょうか。そこは、あまり遠慮するところじゃないと思うんですよ。やりすぎることってあまりない。準備しすぎて悪かったというようには基本的にはならない。他の人が何か違う可能性を感じられるということは、それ自体がプロジェクトとして可能性があったということだと思うんです。そうやって展開の方向が広がっていくこと自体に可能性があるんじゃないかと感じます。結果的に、作家はがっつり作ったし、その人の責任にも帰ってくるところだし、必然的な帰結になったという気はするんですよね。

観客 ある種、実験的な試みをしていていいと思うし、答えが分かっていることに突き進むよりはどうなるか分からないことに実験的に取り組むことは意味があると思います。ただ、問いの立て方がうまくないといい答えが出せない。今回の経験で獲得した方法論は少し分かりにくいかなと思いました。もっと後になったら、分かることだと思うんですけれども。

藤本 キュレーターやコーディネーターがどう関わるべきであるかの回答としては、成果ではない部分に関わってもいい、成果以外のところを養うというか。表現するタイミングだけに従事するものではなく、それ以前のところとかキャリアには直結しない行為にキュレーターが関わって何かが発生する可能性があることは、今回の研究を通して少しその部分に触れられたのではないかなと思っています。どういうふうに関わることができるのかはものすごく大きな問いなので、今回に関しては作品を守る使命を持った美術館のキュレーターの役割とか、展覧会を企画すること発表することの中だけにアーティストとの関わり方があるのではないということには触れられたかなと思います。

服部 どういう問いだったらよかったんでしょうかね。

観客 後出しじゃんけんみたいですけど、結果から見ると、「アーティストがやっていることには、作品より面白いものがあるんじゃないか」というような問いもあったかなと。

服部 自分の立ち位置をどこに置いて、どこを問うかというところですかね。

藤浩志(秋田公立美術大学教授、アーツセンターあきた理事長) 僕としては、当たり前のことを当たり前にやっているという感じがして。すごく悩みながらやっているので、いいとは思うんです。話を聞いて僕なりの解釈をすると、新しい価値、新しい活動が発生してくる現場みたいなものを観客とか自分自身も含めて一緒にそれを体験できたり、共有できたりする試みなのかなと捉えることができた。何かが立ち上がる瞬間とか、何か面白いことが起こる瞬間というのがあって、そこには大体、立ち会えないものなんです。観客は削ぎ落とされた結果としての作品しか見られない。でも本来は、いろんなことが起こっている。大体そういう設定のもとに作家は呼ばれて、共同生活し始めるわけです。設定を作っていくというのはキュレーターの重要な役割で、その後、作家は勝手にやっていくことが多い。コントロールの仕方が重要で、その辺は距離感を測りながらいろいろ実践していてよかったなと思う。

思い出したのは、海外のレジデンスで作家として滞在すると、他の作家と数週間一緒に生活することが多くて、毎晩酒を飲んでは本当に面白いやり取りがあって、「なんでここにキュレーターがいないの?」となる。作家が面白いことをやっていても、その場に企画者いない。そういうことばっかり。いる必要もないんだけれど。面白い企画、面白い価値が発生する現場はいろいろなところにあって、それがどこでふと現れるかわからない。価値が立ち上がる現場、発生する現場があり、作品化するときには削ぎ落とされていく。作家って真面目だから、それを面白くない作品にしちゃうこともあるんですよね。作品化しなきゃ面白いのに、というところもあって。でもそれをどう設定して、どうドキュメントしていくのか。作品そのものよりもそれに巻き込まれていろんな人がいろんな活動をしたり、生まれるサブストーリーをどう捉えて見せることができるのかというのも問いだったと思います。

面白い試みだと思うし、企画者は作家のことは気にしなくていい。作家にとっては余計なお世話だと思うし。作家はどうせ好きにするんだから。と思うから、逆に言うと余計なお世話はしてもいいとも思うんですよね。

Information

展覧会「『応答』~SUMMER STATEMENT 2018 報告とその後~」

■会 期:2019年1月14日(月)〜2月24日(日) 9:00-18:00
■会 場:秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT(秋田市八橋南一丁目1-3)
■企 画:藤本悠里子(秋田公立美術大学大学院2年)
■アーティスト:寺岡海、神馬啓佑、船川翔司、来田広大
■主 催:秋田公立美術大学、NPO法人アーツセンターあきた、向三軒両隣
■協 力:CNA秋田ケーブルテレビ
■助 成:秋田市地域づくり交付金事業

Facebook:BIYONG POINT
特設ウェブサイト:
SUMMER STATEMENT 2018

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた チーフ

高橋ともみ

秋田県生まれ。博物館・新聞社・制作会社等に勤務後、フリーランス。取材・編集・執筆をしながら秋田でのんびり暮らす。2016年秋田県立美術館学芸員、2018年からアーツセンターあきたで秋田公立美術大学関連の展覧会企画、編集・広報を担当。ももさだ界隈で引き取った猫と暮らしています。

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