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事務局長の旅日記Vol.6「内と外とその間」

アーツセンターあきたの事務局長が、旅先で広めた見聞を旅日記にまとめる不定期のコラム。第6回目はあわい(間)の旅。

旅人を迎えることはあれど、1月来、県境をまたぐような旅を自らすることがなく、当座の予定もないので、今回は最近の思考の移ろいを旅に見立てて書いてみようと思います。

秋田での生活は7年目を迎え、出生地の静岡、駐在員生活を謳歌したフィリピンに次ぐ長さとなってきました。仕事柄、秋田県内のさまざまな情報収集にも力を注ぎつつ、県外のアートやクリエイティブなシーンに関する情報も多少は追いかけようと努めていると、秋田の内と外や、アートの内と外を行ったり来たりしているように感じる場面があります。また、行政や商工団体系のいくつかの会合に請われて出席すると、全出席者のうち女性がたった1人で、年齢も下の方ということが少なくないのが常。職場に戻って、「こんなことが議論されていたよ」と共有すると、若いスタッフからの嘆息が洩れ聞こえることもしばしばです。

そんな世代や価値観のあちらとこちらを行ったり来たりする自分に、寄る辺のなさを感じ、不安に駆られることがあります。寄る辺があると幾ばくか気持ちが楽になるんだろうかと想像しながらも、自分の立ち位置や志向や世代が、ちょうどあわい(間)にあるのかもしれないこと、そのあわいの端と端とをどうつないでいくことができるのかなどと思考をめぐらしています。

別につながなくても良いではないか、という声も聞こえてきそうですが、完璧につながないにしても端と端で、時に目を反らさずにお互いを見つめて、距離感を確認するくらいはできても良いのかなと思ったり。そう思うのは、こんなに不穏な世界情勢や衰退しゆく地方都市の実情を目の当たりにしているからですが、そういった大きな社会の流れに加えて、フィリピン人の知人、アーティストのTad Ermitanoが2年前にSNSに投稿していた一文が胸に引っかかり、時々フラッシュバックのように襲ってくるからでもあります。本人の許可をとって、私なりの翻訳を掲載します。一部注釈付き。訳が間違っていたらすいません!

今回の(大統領)選挙の結果には、私たちの社会が内輪化し複数のグループに分断していることが一部影響しているのではないかと考えている。グループ同士は互いに疑念を抱き、他のグループを軽蔑する。話し合うのではなく、罵倒し合う。SNSのタイムライン上の投稿は、こういった分断を助長し、扇動する者たちはさらに不信感を増幅させ、利用している。封建制や家父長制が貧しい人々を抑圧し、間違った教育をした結果、今となっては彼らは議論をする力を失い、最も心地よい仲間だけに忠誠を誓い、それ以外の他者との対話の機会を放棄している。もしかすると仲間内であってもそうなのかもしれない。 この投稿(とあるサイトの記事)には、相手に耳を傾けなくてはならない状況に仕向けるというディベートという行為の大切さを示している。これが鍵となるのではないか。どうやって私たちが異なる他者に耳を傾けることができるようになるか、その問いに対しての鍵である。そのためには、教育と長期にわたる働きかけが必要だ。

Was just thinking the other day that the election results are partly caused by the fragmentation of our society into camps. Each camp mistrusts, or has contempt for the other. Shouting, not talking. Many streams feed these divides and demagogues then amplify and exploit the mistrust. A heritage of feudalism and paternalism suppresses and miseducates the poor, who, now barely capable of discussion, give their loyalty to the most welcoming camp and abandon dialogue outside it. Maybe even within it. There’s a line in this post about how the beauty of debate is that it forces you to listen to your opponent. This is a clue, I think. A clue to the problem of how we can start listening to each other. But the clue points to pedagogy and years of work.

Tad Ermitanoの2022年5月10日のFacebook投稿より

この投稿のことを思い出したのは、3月31日に開催された「たいけん美じゅつ場フォーラム」の配信を視聴していた折、登壇していた東京藝術大学の伊藤達矢先生の発した言葉に虚を突かれたから。詳細はぜひアーカイブ動画をご視聴いただくとして、私がはっとしたのは、「世の中の構造が、無意識的にある種のその場にいられる人たちに対してのみ開かれているものになっていないか」という伊藤先生の指摘でした。

「たいけん美じゅつ場フォーラム2024 4つの問いで考える、まちの居場所のほぐし方 ー駅ビルで私たちの未来をともにつくる」

自分はフェアで、比較的誰に対しても開いていると奢っていなかったか。誰かの視点に立ってみれば、私もまた内であり、外である。軽々しく、あわいを気取るなよ、と一喝されたような心持ちになりました。 最近では「ソフト老害」という言葉も出現していますが、カテゴライズすることで、対話やディベートの突破口を諦める口実にしていないか。「論破」もブームになりましたが、言い負かすことで悦に入り、他者に耳を傾けることができているか、、、
日々是精進。ディベートの練習にお付き合いいただける方求む!

Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた 事務局長

三富章恵

静岡県生まれ。名古屋大学大学院国際開発研究科修了。2006年より、独立行政法人国際交流基金に勤務し、東京およびマニラ(フィリピン)において青少年交流や芸術文化交流、日本語教育の普及事業等に従事。
東日本大震災で被災経験をもつ青少年や児童養護施設に暮らす高校生のリーダーシップ研修や奨学事業を行う一般財団法人教育支援グローバル基金での勤務を経て、2018年4月より現職。

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