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民具は、ごみか、資源か? ー シンポジウム「モノを残すことの価値を問うアーカイブ研究会」レポート(後編)

秋田市在住の収集家・油谷満夫さんの収集物の分類整理と価値検証を行うプロジェクト「1/1000油谷コレクション」。その一環として開催したシンポジウム「モノを残すことの価値を問うアーカイブ研究会」の後半をレポートします。

シンポジウムの後半は、キュレーターでプロジェクト「1/1000油谷コレクション」を監修する服部浩之さんをモデレーターに迎え、各地でアーカイブを実践する専門家と、プロジェクト「1/1000油谷コレクション」の参加作家が登壇し、ディスカッションを交わしました。前編レポートはこちら

“価値”を判断する

服部:
モデレーターをつとめる服部と申します。私は2017年からしばらく秋田公立美術大学の教員を務め、その時に油谷さんや油谷さんのコレクションに出会う機会を得ました。ここ3年ほどは、油谷さんからいろいろとお話を聞く機会をいただいています。
実は、基調講演をいただいた神野先生が中座しなくてはならないということで、まず全体を通してコメントをいただけましたら幸いです。

神野:
今日は異業種交流というか、いつもの民具関係、民俗学に関わる人以外の、現場で最先端でやっている皆さんと話ができる良いチャンスをいただきました。油谷先生のおかげです。

まず一言申し上げると、民具を古道具のように考えている人が多い。せいぜい50年前、古くても100年前程度のものだと。しかし、50年前の生活用具、これは本当に価値がないのでしょうか。生活用具は、早いものだと1年でなくなる。あるいは1日でなくなるものもあるし、耐久性のある道具であれば、何十年ともつものもある。例えば、だんだんとノミがちびて、途中で一番使いやすくなり、それで最後は使えなくなって、新しいものに変わる。そういうサイクルなんだよね。使い捨てるけれど、生まれ変わって、再生するというのが、民具の世界の特徴だと思っています。それが大量生産品になってしまうと買い替えれば良いから、つくるための知識とか、使うための技とか、そういうものがどんどんと消えていってしまう。

そして、「デジタル」という言葉。語源はラテン語の《digitus》で、「指」という意味なんですね。我々は指先であらゆるものを判断できていた。職人の指、指先なんですよ。ところがその能力が、非常に多様な感覚能力が、ゼロイチになっちゃうんだよね。今のデジタルは押すか押さないかみたいな。これをもう1回取り戻したいっていうか、そうしないと生きていけないぞっていうね。もう一つ、「プラスチック」について。これはギリシア語の《plastikos》が語源で、「可塑性」ということを意味している。石油化学製品は可塑性の最たるもので、何でもできてしまう。だからこそ、もう一回自然素材のあり方と、化学製品のあり方とを重ねながら、物の素材と形と機能とっていうのを考え直すといいなというふうに思ってます。指の感覚能力から離れて、プラスチックを用いた大量生産品、工業生産品に変わってきたというのが大きな違いを生んできたというところを指摘しておきます。

それから、私も大学に所属して、大学美術館長を10年ほど務めました。美術資料図書館も併設されたところで、途中から名前を変えて「ミュージアム・アンド・ライブラリー」として、館長は1人、スタッフは一つの部屋で執務して人事交流もある。これは、ギリシア・ローマ時代の「ムセイオン(Mouseion)」、「ムーサ(Musa)」ですかね。美の殿堂ができたときの基本的な考えは、文芸もアートも一体になって考えていくという、そういう世界だったんすね。もう一回この線で行きましょうよ。

今日は本当に印象的な話がいろいろありました。美術の世界は、本当に限られてますよね。どうしても閉鎖的になりがちで、大学の入口が門番になってしまうというお話がありましたけど、行政がそれをやるわけですよね。もっと幅広くこれからを考えていく基本的な資源を残していけるような、そういうことに専門家だけでなく、支援者を求める話は感動的でした。国立科学博物館がクラウドファンディングをやって、大変なお金が集まった話をご存知でしょうか。本当は国でやらなくてはいけないことを、みんなに力を求めたわけですけれど、そういう底力を国としてもっと高めていけるようなことを、みんなが言わない限りは高まっていかない。それをぜひ、こういう機会に広めていけたらと思いました。

服部:
ありがとうございます。客席から質問をいただいています。「物に優劣を付けますか」ということと、「民具を残すものと、残せないものや捨てるものを区別はするのか、どう定義するのか」。神野先生、お願いできますでしょうか。

神野:
それは我々、民具の専門家に突きつけられているといえます。委員会をつくって、その優劣をつける基準を述べるように言われるわけです。それをつけると、劣とされた方は助けてもらえない。国の指定という制度があるのだけれど、指定することが指定してないものを捨てる基準になってしまうような、そんな恐れがあるわけです。それがグラデーションのように移っていくような、そういう考え方がとれるといいなと思っています。

例えば、ある博物館に行ったら、収蔵品が2つに分けられているんですよ。よく整理された方にはラベルに名称がついていて、わからないやつが反対側にあって、それは捨てられる方。実はそこに面白いものが入っているにもかかわらず。わかってるものなら安心できるんだけど、わからないものは安心できない、あるいは壊れてると捨てる対象になっちゃうんですが、壊れてもそこにしかないものはあり得るわけ。そういうものを指摘できる力をもっと持ちたいと思う。まだ民具研究は始まって50年しか経ってない。もっと力をつけたいと思っています。

服部:
「わかるもの」というのは、既に価値がつけられているものという言い方もできますね。現代美術は、そもそもわからないものをつくり出す、あるいはアプローチするということなので、定型的な価値のつくり方とは相容れないところもある気がしています。グラデーションという指摘は本当に重要だなと思って聞いていました。 例えば優劣をつける、あるいは基準をつける、定義をするっていうことは、残せるものを可能な形で残すというアーカイブみたいなものの考え方と真逆ではないかと思ったんですけれど、佐藤さんはどうお考えになりますか。

佐藤:
ベースにある私たちの生活形態が、この70年くらいで激変したんだと感じています。同じものを大量につくることができる技術が発展し、つくられたものを使うという生活になり、もののつくり方も変わってきた。僕たちは今、そうした技術の激変期の真っ只中を、そのちょっとピークを過ぎたぐらいのところを、生きてるというふうに思うんですよ。だから、施井さんがおっしゃったように共時的な価値観だけで見るといらないものに見えてしまうけれども、すごく大きな、たとえば人類史という視点で考えると、不要に見えるものの中に、自分でものをつくって直しながら生活していたときの技術や、そうした生活の痕跡、さまざまなものの使い方までが全部詰め込まれていることがみえるはずです。しかし僕らは、それを忘れつつあるんだと思います。そう考えると、ある意味で僕らが価値判断するということをちょっと棚上げして、全部置いておくぐらいのことが必要なんだと思います。なぜかというと、僕らはそうしたものの価値を判断する基準みたいなものを、生活の中で失っているわけだから。ものを使うだけになってしまったひとが、つくられたものの価値を判断ことの危険性がそこにははありますよね。  ただ、全部置いておくというのはものすごく大変なのは事実。どこまで残すかという現実的な判断は必要だと思うんですけど、基本的に、僕らはそういうたくさんの知恵が消えていく時代を共時的に生きてる当事者なんだっていう意識を持ちたいと思ってます。

神野:
分散してもつ話が出ていましたが、そういったこともあり得ると思います。

藤:
分散・偏在させても、施井さんが話された履歴をつくることで繋がっていられる可能性があると思います。
価値の話でいうと、新しい価値をつくる上で、今のものがどう活用できるかが重要で、既に今の時代に価値を認められているものには手を付けられないし、そこから新しい物事とか、新しい事柄とか、新しい価値を作り出すってことは、必要もないわけですよね。冒頭の油谷さんの「民」の話に通じますが、今苦しんでいる、今貧しいところからどうやって生きていくかっていうときに、何を活用できるのか、何を頼りにできるのか、どうやって僕たちは生きていくんだっていうときに、今見過ごされてるものや、過去において価値づけられなかったものたちが、とても重要になってくる時期が来る、その可能性があると思っています。

関わりしろをひらく

服部:
最初の油谷さんのお話でも「民」っていう話が出てきていて、今日皆さんのお話を聞いていて、ただ特権的な誰か1人が掌握するということではなくて、複数であること、あるいはコミュニティとして何かを展開していく、より幅広く様々な人に届けるというところで共通点があったのではないかと思います。そうすると、届ける対象が非常に幅広くなってくるという難しさも伴います。

まず寺田さんにお伺いしたいのは、東京大学の博物館というと、とてもハードルが高いように思われそうですが、モバイルミュージアムの事例の紹介もありましたが、誰に、どこに届けようと意識されているんですか。

寺田:
大学博物館の一つの重要な使命として、やはり学生というのは絶対考えなければいけない対象ではあると思うんです。ただ、大学の教育研究機関であり、かつミュージアムであるという大学博物館の特性を考えると、決して閉じられた空間ではなくて、あらゆる人に開かれた場所でなければならない。それは常に考えなければいけないところだと思うんですね。

私が油谷さんのコレクションを見て、その多様性に一番驚かされるところがありました。 そういった意味で先ほどから話題になっている既に価値づけられたものではなくて、可能性がこの多様性の中にあるんだろうなと思うんですね。そういったときに、まず大学のいいところは、学生がいるところ。 何かを成し遂げる力や経験を積んだ人材としての学生がいるというのがメリットかなと思っています。既に参加されている学生もいらっしゃると思いますが、もっと活動に関わっていけると良いと思いました。

服部:
学生のことは、藤さんがよく指摘されていますね。大学に毎年新しい若者が入ってくるということのポテンシャルの高さについて。


施井さんにお伺いしたいのですが、油谷さんのコレクションを目の前にして、NFTやインターネットを活用して何か面白い取組みや繋がりが考えられたりしますでしょうか。

施井:
藤先生が、油谷さんはアーティストだと発言されていましたけれども、僕も同じ感覚でみていました。少し前にアーティストの村上隆が言っていましたけど、「自分は現世を意識してなくて、死んだ後に自分の作品がどうなるかを意識してる」と。アーティストはそういうところがあるのかなと思っています。油谷さんも中学校時代から、現世というよりも超越した目線で見てて、自分が判断しないようにしてたりとか、後世に受け継ぐことを自覚的にやっていたところがある。その辺はもうアーティストのメンタリティだなと思っています。

我々は、アーカイブっていうものが活性化される技術を提供しているという感覚がありまして、それは結局何が最終的に残るかわからないなら全部が残るかもしれないっていう世界の中で、技術がそこに追いついてなかったから、捨象せざるを得なかったっていうのが僕の仮説で。有名な話では、ロックフェラーは自分の価値判断を入れずに、何でも全部買うっていう姿勢だったと訊いています。その中にウォーホールがあったりして、今のニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションにつながっている。それが本来あるべき姿じゃないかと個人的には思っています。作家が自分で作品を作るときもどんどんつくっていけばいいし、コレクターも自分でそんなに判断しない方がいいんじゃないかみたいなところがあって、それがちゃんとサポートできるような技術をつくっていきたいなというふうに思っています。

服部:
つづいて順番に、西村さんにお伺いしたいと思います。まず、歴史的建造物という、既に価値があるものを残すというところになぜ着目されたのか。そして、投資家と地域住民とをつないで、残すことに関わるコミュニティを形成していくという点で、どういう風に関わる人たちの関係性を築いているという点について、お伺いさせてください。

西村:
PlanetDAOの仕組みとしては、建築に限定しているわけではないのですが、建物には土地が付随して固定資産税がかかったり、庭園があるとその維持コストが年間数百万円かかったりと、個人で維持していくことは非常に困難であるというのが一つの理由です。例えば、寺院の場合、檀家という支援者がいて、その土地の人たちにとって大切な存在で、これまでも維持・管理は特定の誰かがやるというよりも、地域でやるということが慣習になっているということがあるんですよね。今回ご紹介した和歌山県の事例も、地域に若者がほとんどいなくなっていて、檀家総代の方が残したいと言っても難しい状況にあった。建築物を、地域で支え続けるのは財政的にも人的にも難しく、危機に瀕している状態なのかなと思います。

また、投資家と地域住民のつなぎ方について、投資家と地域のギャップが生じることのリスクで想定されるのは、地域はこうやって残したいと思っていたけれど、投資家は全然違うことを考えていたということだと思います。そこで、私たちとしては、文化財だから投資をしようということではなくて、残したいと言っている地域の方々の思いをきっちり知ってもらうっていうことが大事だと考えて、それを伝えるような仕掛けを用意しています。投資家も地域も、同じビジョンというか、目的感を持ってそこに向かって進んでもらうっていうところがすごく大事な点じゃないかなと。

また、分散化の方の話にも繋がるんですけども、1人の人が独占的に所有権を維持できないように、150名の方に持ってもらったりとか、1人の投資できる金額を限定するといった工夫はしています。

服部:
ありがとうございます。歴史的建造物って、みんないいものだなとか思いながらも、なかなか残せないといった課題を抱えているっていうことが多いんだろうなと改めて思いました。

観客の方から質問をいただいています。今までの話とすごく繋がるもので、「物を残すためには、まず物の価値や面白さに気づき、理解できる状態であることが必要だと思いました。物の価値や面白さに気づくために必要だと思うことはありますか」というような質問です。さきほどの価値や面白さをどう見いだしていくのか、どう気づくのかっていう、例えば油谷さんのこういう持ってらっしゃるものをどう面白がれるのかっていうような話にも繋がる気がするんですけども、どう気づくかっていうところに対して、ご意見をいただきたいです。 これはどなたでも。

施井:
やっぱり価値って、どこまでいっても相対的なもんだと思うんですよね。 例えば、すごくいいダイヤモンドがあったとしても、みんながそれを手にすることができたら価値はなくなるとか。 クラス一番のイケメンもみんな同じ顔だったらば、みんな普通の顔になるし。だから価値って相対的なもんなんで、冒頭にもお話があったように、今もう価値があるものっていうのは一番伸びしろがないっていうのはそうだと。一方で、何かまだ見ぬ価値を見出す人ってちょっと特異な、変態だと思っていまして、油谷さんなんかだいぶ変態なんじゃないかなと。 だからどっちかっていうと、みんながそうなることを目指すというよりは、そういう特異な人が報われる社会になっていくと、より面白いものが生み出されていく。今大企業とお話しするタイミングが多いんですが、そういうときに前例がないと動けないとか、価値が定まってないと駄目。先ほどのアーカイブするかしないかの話も、全部繰り返しになるんですが、価値がないと残せない、価値がもう定まってないとやれないみたいなところばかりがクローズアップされていく。変態が報われないし、面白いことの少ない社会になっていくのかなというふうに思いますね。

寺田:
私が新しい価値に気づくときに大事だなと思ってるのは、文脈を変えてみることです。今までそのものが置かれていた文脈にそれがそのままあると、なかなかわからなかったのが、ちょっと文脈を変えてみると、新しい発見が生まれることがあります。イメージしやすい例として挙げるとしたら、会場内に三つ又の金属のオブジェがあって、何か引っかける道具なのかなと想像するだけで、実際何なのか私にはよくわからないんですけど、尖っている感じがオブジェとして美しいなと思って見てたんですね。博物館の調査研究では、資料の情報を見つけて充実させていくことが大事だと常に思っていますが、一方で、そこにとらわれずに、ものの見方を変えるために文脈を変えてみたら何か気づくことがある。この三つ又の金属のオブジェの例で言えば、道具としてではなくアート的に形を見てみようと思ったら面白いと思えるといったように、文脈を置き換えてみることは、新しい価値に気づくための一つのコツというか、誰でもできることかなと思ったりしました。

服部:
具体的な提案をありがとうございます。油谷さんはよく「ものの声を聞け、聞こう」っていうようなことをおっしゃっていて、今のお話はすごくそれに近いところもあるなと思って聞いておりました。

藤:
僕は、触るとか、一緒に過ごすとか、関わりが深くなればなるほど価値は高まると思っています。存在も関係の中から出てくるので、いくらものがあっても、関係がないと存在していないことになってしまう。さっき神野先生がデジタルの語源が指にあるという話について面白いなと思ったのは、撫でるとか磨くとか、いろんな指との関係があって。ずっと会場にいてものを見ていると、磨きたくなると思うんですよ。ちょっとオイルで拭きたくなったりとか、ちょっと削りたくなったり、さび落としたくなったり。触っているうちに何かになってしまうことが、新しいものの発見に繋がるんですよね。元々価値があるかどうかということよりも、そこに深く関われるかどうかっていう、コミットメントのような気がするんですよ。 どういうふうに取り組むのかとか向き合うのかとか、それによって実は全然違うんじゃないかなっていう気がします。僕はありとあらゆるものから価値をつくり出せる自信がある。変態ですね。

國政:
僕も作家で、自分もものづくりをしている身なので、アナログで人間が触るとか、どっちかいうと実際の物をどうするかっていうことをよく考えます。今日の話をお聞きして、コミュニティ・アーカイブやモバイルミュージアム、ブロックチェーンなど、分散している状態ってどういうものなんだろうっていうのを考えていくうちに、僕の中で「箱」っていうイメージが出てきた。これらのものを収納する箱をつくりたいなって、思ったりしながら聞いてました。今回も、前回の7月の分類整理のときも、いろんな箱があるんです。木箱だったり、ダンボール箱だったり、前回は茶箱があったり、いろんな入れ物があって。こういう油谷さんの収集品を、箱の観点で見ていくと、なんかもっと想像力が広がっていくなっていう気がしていました。

佐藤:
芸術大学に就職して自分自身は芸術の専門教育を受けていないのに、大学院の修了審査をしなくてはならなくなって、最初は困りました。そういう審査ってできないなと思ったんです。例えば、美術史的な文脈に関する知識とか、その作品が今、専攻の中でどんなふうに見られてるかとかっていう感覚や、空気感も全く共有してないので、そんなのは無理ですよって言いました。そうしたら中原浩大先生っていう彫刻の先生が、いやそんな知識は全然いらなくて、佐藤さんが感じたことを喋ってくれればいいですよって言われて、それならできるって思ったんですね。知識がゼロでも、むしろいま目の前にあるものから何を感じ、何を考えられるかというのがポイントで、いろんな感覚で感じてみて、そこで何か面白いと思うことが発生するかどうかっていうのが大事なんだと思っています。

藤:
結果として、価値が出るかどうかってわかんないんですよ。さっき文脈を変える話もあったけれども、どうしたら面白くなるかなっていうことを考えちゃうのが、面白いんですよね。これとちょっと何か別のものを組み合わせる。掛け算、足し算、引き算、割り算みたいな、問題なのは、さっきのキーワードでも、いくつか出てきたと思うんですけども。イメージを刺激するっていうことがやっぱり大事で、そこで創造していくこととか、そこで遊べることとか、どうにかなりそうな気がするとか、その試行錯誤が、その時間をつくってくれることの方が大事です。結果として何もならないことが多分ほとんどなんですよ。  なんだけど、それをつくろうとすることが、佐藤さんもおっしゃったような、学生の態度であるとか、何かをつくろうとすることの意味みたいな。そこからしか、価値は生まれてこない気がします。

”価値”を伝えること、つなぐこと

西村:
皆さんに質問したいんですけれども、自分たちが地域の人と接して肌身で感じた価値を人に伝えようとしたときに、すごく困るんです。言語化してしまうと、とても陳腐になってしまう。その作業にすごく苦労してる自分がいるんですけど、感じた価値っていうのはどう言語化するのかとか、どう伝えるのかって、どう皆さん思われてるのかっていうのをお聞きしてもいいですか。

服部:
我々は悩んでいるからこういうことやってるっていう。

施井:
さっきお話しした「共時性」と「通時性」という言葉。それを見つけて、ここに価値があるんだということを言語化することができた。言語化には発明というか、何か一つのクリエイティブが必要だと思っています。 そういう意味では、今回のコレクションもそうだし、現代美術全体もそうだし、はたから見て、価値があるかないかわかりにくい領域って、たぶん世界にとって、人類にとっても最後の一番楽しいものになるんじゃないかなと思っていて。どんどん世の中つまんなくなっていって、AIが代替できるようなものになってくるし、仕事の楽しさもなくなってくると思うんですよね。そういったときに、やっぱり人間がつくり出してきたものの歴史とか、文化とか、つくってきたもの自体が最高のエンターテインメントになったり、今の言葉では表せない何かになっていったりするっていう、そういう希望を、どうにか現代社会で自分が頑張ることによって、それを言語化することによって、何か変えられるかもしれないみたいな。そんなモチベーションでやっていくってのは結構いいのかなと思っています。

服部:
ありがとうございます。さっきの藤さんの話につながりますが、ここにあるものは博物館に収められているものと違って、触れるし、関わり方がいろいろ持てるから、何となく言葉にできていく気がしてるんですよ。最初膨大なものとして引いて見てたときは、まず油谷さんっていうその存在の変態性、すごさ、パンクさに惹かれてたんですけれども、油谷さんが、ものを実際に触れることのできる距離で見せてくれることによって、だんだんそのもの自体の魅力が見えてくる。自分の解像度も、近づくことで上がっていく。そうなると、それに対する観察技術のあり方も変わってくる。今ここにあるものに対して、プロジェクトに参加していただいている方が、分類カードに自分のコメントや油谷さんに聞いたことをメモしているんですけど、そこのコメントがすごい魅力的なんですよ。 それはやっぱりものと直接関係を結んでるからなんだろうなって。

藤:
投資家にどう届くかっていうことの世界は僕はよくわかんないんですけども、例えば僕らがやっている活動は、こういう価値がありますよといって集まってくれるというよりは、これから一緒に価値をつくりますよって言って、集まってくる人に向けてる気がするんですよ。そこに届けばいいなっていう気がする。だから逆に言うと、もう出来上がったものに関心のある人と、これから一緒にそのお寺の価値をつくっていきましょうっていうものに関心のある人は違うと思うんですよ。 どっちを集めたいかっていう気がするんですよね。どっちと繋がりたいか。

僕の根底にあるのは、大量生産、大量消費されたものの時代の中に今いるけれども、それ以前の時代は皆さんつくってましたよね。 自分たちで必要なものをつくってきた時代でしたよね。もしかしたらこれから必要なのは、やっぱり自分たちが必要なものを自分たちでつくること。つくることに参加しましょうという、そういう呼びかけができると、いい人たちと繋がっていって、何かができるんじゃないかなという気がしてます。

服部:
結構佐藤先生に質問が来ています。コミュニティの関心をどうやったら高めていけるのか、といった質問です。例えば、この「1/1000油谷コレクション」の活動っていうのが、今のところ大きなスポンサーもいないですし、ただ地道にやってる活動でもあるんですけれども。幅広い人たちの関心を集めるために、例えば継続的に関わられているせんだいメディアテークとか、京都市立芸大の活動の中で、どんなふうに考えてらっしゃるのか教えていただきたいです。

佐藤:
京都市立芸大も、秋田公立美大でもそうですけど、公立の大学だっていうのがやっぱりすごく大きいと思っています。せんだいメディアテークも、仙台市がつくった公立の文化施設、生涯学習施設で、要するにみんなのものとしてつくられたっていうところを、すごく大事にしている。そういう場所では、文化施設というものが、そもそも大学の中の人のだけのためのものじゃないっていう意識を持っていますし、大学としてもそう思っている。 学生が育つための場所としてある施設だから、日々そこには学生とか教員がいるんだけども、本来的には公立の文化施設っていうのは、例えば市とか町とか県とか府とかの人たちのものですよね。だから芸術資源研究センターも、大学のなかにある芸術資源のアーカイブをつくることが優先的な課題にはなるんですけど、例えば地域で文化活動をしている人とか、地域で社会運動をしてる人たちが持っている写真であるとか、蓄積されてきた資料も、大学として預かって、保管していこうと思っているんです。地域の小学校が、その地域の資料を持っていて、公民館的な機能を果たしていくのと同じような意味で、大学も地域の文化・芸術資源を保管していく場所のひとつだというふうに考えて、地域の人と付き合っています。

服部:
本日のシンポジウムのタイトルは「モノを残すことの価値を問うアーカイブ研究会」。お話の中でも、残すこと、残さないことについて色々な示唆がありました。國政さんにお聞きしたいのは、そもそもアーカイブというのをどのように捉えていたかということです。

國政:
ものが手でつくられていた時代から、しばらく経って、これがどういうものであるのかっていうこと自体もわからなくなってきている。ただ、ものとしては何か秘めている。ものを触ったり、見たり、油谷さんから話を聞くことによって、使われてきた場所の風景とか暮らしとかが思い浮かぶっていうことを、このプロジェクトに参加して身を持って体験しています。そういったものが、これからどうなっていくんだろうってのは、普通に疑問として自分の中にもありまして。油谷さんっていう人が奇跡的にいたから、こういうことが今目の前にあるんですけど、こういったものは本来もしかしたらなくなっていくものだろうということがあると思います。これ残していきたいって自分が思ったときに、どうやったら残せるんだろうって。普通に考えると50万点を残していこうって簡単なことではないですよね。場所の問題であったり、それをどういうふうにリスト化するとか、記録するとか。収蔵の問題も各地で顕在化しています。これからもものはどんどん増えていくわけだし、そういったときにどういうことが考えられるのか。今回デジタルアーカイブっていうキーワードも出ているんですけれども、やっぱこれをきっかけに、先端的なアーカイブ方法が考えられるんじゃないかなって思っているんですね。ゲストの方々が取組む事例や議論の中から、次の何か展望みたいなのが見えてくるんじゃないか。あるいは何か試しにできることがまたできるんじゃないかなっていうことを考えています。

服部:
観客の方の質問の中にも、「使い方」を残すにはどうしたらいいんでしょうっていうような質問もありました。つまりものが残るだけでよいのか。何が残ることが、これからの価値に繋がっていくんだろうって、そこをずっと考え続けている気がしてます。 今日神野先生のお話でもいろいろ出てきたんですけど、結局使い方がわからなくなってしまうことも多いということですよね。その当時どう使われていたか。それを知ってると思われる人に聞いたとしても、それが正解ではないかもしれない。どう使われていたかを想像していくと、その先に繋がっていく気がする。ものを前にして、どう使われていたんだろうとかどんな道具だったんだろうと、想像したり考えることが、何かをつくることに繋がっていったりとか、次の何かを生み出すような契機にはなっていく気がしていて。もう一度芸術資源っていうことに戻ると、こういうものたちの機能や意味を徹底的に想像する可能性なのかなっていうようなことを、今日皆さんのお話を聞いても思いました。

未来にどうつなげるか

服部:
最後に、最初に聞けば良かったんですが。こういう油谷さんが集めたコレクション、活動を見て、何かコメントとか感想をいただければ。

西村:
事前に活動の記事はウェブサイト等で見ていたんですが、現地に来てものを見て、油谷さんと直接お話しする体験には勝てないなと思いました。油谷さんとお話しして印象に残っているのが、エジプトのツタンカーメン展を観に行った時の話。何千年も前のものが残されていたことに、自分が集めたものがそうなっていけばいいなとういお話をされていて。そういう深い思いがあったということに感銘を受けました。

施井:
油谷さんはやっぱやばい人だなと。もっと知られた方がいいなと思います。香港のM+という美術館に、以前日本のプロダクトデザインみたいな展示をみにいったことがあって。昔の日本のプロダクトデザインのトップスターを並べた展示だったんですが、それと油谷さんのコレクションを比較すると、その展示では捨象されてた中間のグラデーションのものがたくさんあって、デザインの繋がりがすごく見えたなっていう感じがしました。展示だけみても、1個1個のプロダクトの関係性ってあんまり見えなかったんですが、ここで見ると、20年前の道具と、100年前の道具の繋がりみたいなのがグラデーションで見えたのもあって、新しい博物館的な体験みたいなのもできたなと思って。

寺田:
選び放題。もしこれを使って展示していいよって言われたら、とにかく選び放題のコレクションの山にとてもわくわくしました。私は油谷さんのコレクションに対して、今日がファーストコンタクトなので、何かすぐにこれができるというアイディアが出てきたわけじゃないんですけど、やっぱりものがたくさんあること自体の凄さ、貴重さを感じます。今はインターネットを通じて、いろんなデジタル情報画像にアクセスできる時代になっているからこそ、実物が目の前にあって、そこから受ける印象、重さとか風合いみたいなところを感じ取れるコレクションの集積っていうのは本当に意味があるんだろうなということを強く思いました。

佐藤:
油谷さんは今日最初に、「民」というキーワードを出されましたが、油谷さんの語られることのなかに、僕は、苦しんで生きてきた人たちへの思いをすごく強く感じます。そうした姿勢に、ものすごくエッジがきいたキュレーターのようなアーティスト性がある。今この場所も過激な展示というか、過激な空間だと思います。 
あと、秋田公立美大の人たちが、ちょっと大学と離れたところでこのプロジェクトに繋がってるっていうところも面白い。さっき藤さんが、油谷さんの活動をどこにリリースするかが大事だっておっしゃいましたけど、リリース先として秋田公立美大がぼんやり浮かび上がってきているような気がして、そこに面白さを感じています。油谷さんのコレクションをベースに、ものを分解して、分析して、もう一度つくり方を知るみたいな、リバースエンジニアリングというか、あるいはリバースクリエイションのようなことが、秋田公立美大に対してリリースされようとしているのではないか。その場に立ち会っている感じはすごく感動的です。

ディスカッションで、プロジェクト「1/1000油谷コレクション」の今後に向けて様々な可能性が提示されました。藤浩志さんは、「前回の分類整理で出てきた活版印刷機や体操服を使って、洗って、磨いて、修理して、刺繍してと、新しい活動がでてきました。今回出てきたものもどんどん活用してみたい。そこから活動が連鎖し、新しいクリエイションが出てきて、そこへのアクセスもひらかれていくことが重要で、それが今の人だけではなく、未来の人にどうつないでいくか、今回それに向けて重要なヒントをもらった」と締めくくりました。

Information

シンポジウム「モノを残すことの価値を問うアーカイブ研究会」

さまざまな境界や領域を横断してアーカイブにかかわる取組みを実践する専門家とともに、これからのアーカイブの可能性について議論する研究会。プロジェクト「1/1000油谷コレクション」関連の特別シンポジウムとして開催。

●日時:2025年1月25日(土)13:30~17:00(受付開始13:00)
●会場:秋田市文化創造館2FスタジオA1(秋田市千秋明徳町3-16)
●主催:秋田公立美術大学有志(國政サトシ、藤浩志、高橋卓久真)、NPO法人アーツセンターあきた
●助成:公益財団法人小笠原敏晶記念財団 交流助成






Writer この記事を書いた人

アーツセンターあきた 事務局長

三富章恵

静岡県生まれ。名古屋大学大学院国際開発研究科修了。2006年より、独立行政法人国際交流基金に勤務し、東京およびマニラ(フィリピン)において青少年交流や芸術文化交流、日本語教育の普及事業等に従事。
東日本大震災で被災経験をもつ青少年や児童養護施設に暮らす高校生のリーダーシップ研修や奨学事業を行う一般財団法人教育支援グローバル基金での勤務を経て、2018年4月より現職。

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