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菅江真澄をたどるプロジェクト、始まる。
考古学からみた真澄とは?

2019.10.11

「旅」「移動」「記録」「表現」などをテーマとした展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」に向けた公開プロジェクトとして、江戸時代後期に秋田を巡った紀行家・菅江真澄の旅の軌跡をたどるプロジェクトが始まりました。第1回「菅江真澄をたどる勉強会」では、吉川耕太郎氏が考古学者の視点でレクチャー。考古学からみた真澄像に迫りました。

プロジェクトを公開しながら、出来事や時間などかたちを持たないものを描き出す新たな試みとして開催する展覧会の起点として、8月20日、「菅江真澄をたどる勉強会」の第1回目がアトリエももさだで開かれました。

第1回「菅江真澄をたどる勉強会」
日時|8月20日(火)18:00〜20:00
場所|秋田公立美術大学 アトリエももさだ 作品展示室
ゲスト|
吉川耕太郎(秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)
小松和彦(小松クラフトスペース・秋田人形道祖神プロジェクト)
内容|
・レクチャー
「考古学からみた菅江真澄について」吉川耕太郎
「秋田人形道祖神と菅江真澄について」小松和彦(記録はこちら
・ディスカッション(記録はこちら
「真澄と美術との接点の作り方」吉川耕太郎、小松和彦、石倉敏明、服部浩之

前半は、吉川耕太郎氏(秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)が考古学者の視点で、小松和彦氏(郷土史研究家)は秋田の人形道祖神を調査する過程で出会った真澄像をレクチャー。後半は、キュレーター 服部浩之氏と文化人類学者 石倉敏明氏を交えた4人が真澄と美術の接点についてディスカッションし、真澄の記録に宿る創造性を模索しました。まずは、「考古学からみた菅江真澄の記録」と題した吉川氏のレクチャー記録を公開します。

「考古学からみた菅江真澄の記録」

菅江真澄の記録に生きる「考古学」の眼

菅江真澄の記録のなかに、石器時代に関する記録があります。今回は代表的なものをピックアップしながら、実際に真澄がどう記録していったかを見ていきたいと思います。
まず『栖家能山(すみかのやま)』にある青森県三内で出土したという土器。真澄は「其形は頸鎧のごとし」と記しています。今でいう縄文時代の円筒上層C式の土器で、図としてしっかりと、記録として描かれている。例えば台形状の突起が付いていたり、穴があったり、こういった細部をきちんと記録している。人によって「土器」を目の前にしたときの見方や描き方は違うと思いますが、真澄は今の考古学者と同じような目で見ている。細かな型式名まで分かる記録の仕方をしており、これは今で言う円筒上層C式土器だなというのが分かります。

菅江真澄『栖家能山』(資料写真:秋田県立博物館提供)

一方、同じく『栖家能山』にあるこれは土偶の頭なのか、先ほどの図と似てはいますが鬼のような顔を描いています。かなりデフォルメされいて、模様の描かれ方は非常に写実的です。ただ、真澄はこれを埴輪と関連付けている。真澄は三河で国学や本草学を学んでいたので、知識がある意味で邪魔をしたり知識に引っ張られてしまうことが往々にしてあったようです。真澄は『日本書紀』の埴輪起源説を引用して図に文章として添えている。実際は埴輪の起源は人形(ひとがた)ではなく、弥生時代の祭祀用の器をのせた特殊器台だということが考古学的に明らかになっており、徐々に円筒形の埴輪から人物や花、ウマ型、家型の埴輪に進化していったことが分かっている。今からすれば、そういう誤った認識を持っていたこともうかがえます。

考古学において最初に真澄を評価した中谷治宇二郎は1935年に、真澄は地名から蝦夷が住んでいた所の土器だと一旦解釈しながらも、こういった土偶だけを埴輪としていて、そこは少し混乱している部分があると指摘しています。

菅江真澄『栖家能山』(資料写真:秋田県立博物館提供)

『外浜奇勝』では、青森県の亀ヶ岡遺跡について記録しています。土器がたくさん出土して江戸時代から有名な場所で、真澄は文様や形なども非常に忠実に描いている。さらに物だけを描くのではなく、出土した場所もしっかりと記録しているというのは、今の考古学的にはやるべきことを真澄は既にやっていると言えます。博物学者的な姿勢とも言えるのではないでしょうか。

相対編年の視点と実測図によって考察

『新古祝甕品類之図』では、秋田県大館市の縄文時代の遺跡を記録しています。やはりここでも、今われわれが土器を見るときに着眼するところまで詳細に、しかも描くだけでなく記述して考察しているところは真澄の優れているところですね。根室で出土したものと形が同じだから古の蝦夷が作ったものではないかというところまで踏み込み、比較をしながら土器の作り手にまで考察が及んでいる。これは青森県の亀ヶ岡出土の土器ですが、地元では「高麗の人が来て作った」と言っているが蝦夷の人たちが作ったものではないかと。真澄は自分で旅をして、いろいろと見聞きして記録していくなかで、「いや、これはこうではないか」と自分で考察しているのが分かります。
急須のような形の土器は縄文時代のお祭りで使ったものだと思われますが、これは瘤付土器と言われる縄文時代後期後葉にだけ見られる土器。注ぎ口が斜め状で細長く伸びる特徴があるなど、型式学的な特徴をしっかりおさえて描かれている。底の部分がへこんでいる特徴もしっかりと観察している。こういったことを細かく描いても、当時はきっと、誰も評価しなかったのではないでしょうか。しかしそれをしっかりと描いているというのが真澄のすごさだと思います。

『新古祝甕品類之図』には、祝甕という古代の須恵器や縄文土器、中世の陶器などの記録もあります。恐らく記述から見て、今で言う縄文土器、須恵器、中世陶器について時間的な関係を真澄は把握していただろうと考えられます。相対編年の視点を真澄自身が既に持っていたのではないか。われわれは当たり前のように、土器を見るとどっちが古い、どっちが新しいと考えますが、当時そう考えるのはすごいこと。真澄は亀ヶ岡式土器と円筒上層式土器という2つのタイプを分け、識別していたことが評価されています。ただ、後者には祝甕ではなく埴輪の一部であると誤って解釈していた可能性のある記述もあります。

真澄は単に絵を描いているのではなく、寸法などもしっかりと記録しました。今、私たちが取っている実測図は真正面から見て、こちら側半分の断面を載せ、寸法などを書いていますが真澄はその原形としてすでにそういった記録を残している。江戸時代に一つ一つの土器に対してここまで記録しているのは菅江真澄だけだろうと思います。

考古学の視点から解説する吉川耕太郎氏