プロジェクトを公開しながら、出来事や時間などかたちを持たないものを描き出す新たな試みとして開催する展覧会の起点として、8月20日、「菅江真澄をたどる勉強会」の第1回目がアトリエももさだで開かれました。
第1回「菅江真澄をたどる勉強会」
日時|8月20日(火)18:00〜20:00
場所|秋田公立美術大学 アトリエももさだ 作品展示室
ゲスト|
吉川耕太郎(秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)
小松和彦(小松クラフトスペース・秋田人形道祖神プロジェクト)
内容|
・レクチャー
「考古学からみた菅江真澄について」吉川耕太郎
「秋田人形道祖神と菅江真澄について」小松和彦(記録はこちら)
・ディスカッション(記録はこちら)
「真澄と美術との接点の作り方」吉川耕太郎、小松和彦、石倉敏明、服部浩之
前半は、吉川耕太郎氏(秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)が考古学者の視点で、小松和彦氏(郷土史研究家)は秋田の人形道祖神を調査する過程で出会った真澄像をレクチャー。後半は、キュレーター 服部浩之氏と文化人類学者 石倉敏明氏を交えた4人が真澄と美術の接点についてディスカッションし、真澄の記録に宿る創造性を模索しました。まずは、「考古学からみた菅江真澄の記録」と題した吉川氏のレクチャー記録を公開します。
菅江真澄の記録に生きる「考古学」の眼
菅江真澄の記録のなかに、石器時代に関する記録があります。今回は代表的なものをピックアップしながら、実際に真澄がどう記録していったかを見ていきたいと思います。
まず『栖家能山(すみかのやま)』にある青森県三内で出土したという土器。真澄は「其形は頸鎧のごとし」と記しています。今でいう縄文時代の円筒上層C式の土器で、図としてしっかりと、記録として描かれている。例えば台形状の突起が付いていたり、穴があったり、こういった細部をきちんと記録している。人によって「土器」を目の前にしたときの見方や描き方は違うと思いますが、真澄は今の考古学者と同じような目で見ている。細かな型式名まで分かる記録の仕方をしており、これは今で言う円筒上層C式土器だなというのが分かります。
一方、同じく『栖家能山』にあるこれは土偶の頭なのか、先ほどの図と似てはいますが鬼のような顔を描いています。かなりデフォルメされいて、模様の描かれ方は非常に写実的です。ただ、真澄はこれを埴輪と関連付けている。真澄は三河で国学や本草学を学んでいたので、知識がある意味で邪魔をしたり知識に引っ張られてしまうことが往々にしてあったようです。真澄は『日本書紀』の埴輪起源説を引用して図に文章として添えている。実際は埴輪の起源は人形(ひとがた)ではなく、弥生時代の祭祀用の器をのせた特殊器台だということが考古学的に明らかになっており、徐々に円筒形の埴輪から人物や花、ウマ型、家型の埴輪に進化していったことが分かっている。今からすれば、そういう誤った認識を持っていたこともうかがえます。
考古学において最初に真澄を評価した中谷治宇二郎は1935年に、真澄は地名から蝦夷が住んでいた所の土器だと一旦解釈しながらも、こういった土偶だけを埴輪としていて、そこは少し混乱している部分があると指摘しています。
『外浜奇勝』では、青森県の亀ヶ岡遺跡について記録しています。土器がたくさん出土して江戸時代から有名な場所で、真澄は文様や形なども非常に忠実に描いている。さらに物だけを描くのではなく、出土した場所もしっかりと記録しているというのは、今の考古学的にはやるべきことを真澄は既にやっていると言えます。博物学者的な姿勢とも言えるのではないでしょうか。
相対編年の視点と実測図によって考察
『新古祝甕品類之図』では、秋田県大館市の縄文時代の遺跡を記録しています。やはりここでも、今われわれが土器を見るときに着眼するところまで詳細に、しかも描くだけでなく記述して考察しているところは真澄の優れているところですね。根室で出土したものと形が同じだから古の蝦夷が作ったものではないかというところまで踏み込み、比較をしながら土器の作り手にまで考察が及んでいる。これは青森県の亀ヶ岡出土の土器ですが、地元では「高麗の人が来て作った」と言っているが蝦夷の人たちが作ったものではないかと。真澄は自分で旅をして、いろいろと見聞きして記録していくなかで、「いや、これはこうではないか」と自分で考察しているのが分かります。
急須のような形の土器は縄文時代のお祭りで使ったものだと思われますが、これは瘤付土器と言われる縄文時代後期後葉にだけ見られる土器。注ぎ口が斜め状で細長く伸びる特徴があるなど、型式学的な特徴をしっかりおさえて描かれている。底の部分がへこんでいる特徴もしっかりと観察している。こういったことを細かく描いても、当時はきっと、誰も評価しなかったのではないでしょうか。しかしそれをしっかりと描いているというのが真澄のすごさだと思います。
『新古祝甕品類之図』には、祝甕という古代の須恵器や縄文土器、中世の陶器などの記録もあります。恐らく記述から見て、今で言う縄文土器、須恵器、中世陶器について時間的な関係を真澄は把握していただろうと考えられます。相対編年の視点を真澄自身が既に持っていたのではないか。われわれは当たり前のように、土器を見るとどっちが古い、どっちが新しいと考えますが、当時そう考えるのはすごいこと。真澄は亀ヶ岡式土器と円筒上層式土器という2つのタイプを分け、識別していたことが評価されています。ただ、後者には祝甕ではなく埴輪の一部であると誤って解釈していた可能性のある記述もあります。
真澄は単に絵を描いているのではなく、寸法などもしっかりと記録しました。今、私たちが取っている実測図は真正面から見て、こちら側半分の断面を載せ、寸法などを書いていますが真澄はその原形としてすでにそういった記録を残している。江戸時代に一つ一つの土器に対してここまで記録しているのは菅江真澄だけだろうと思います。
現代の発掘調査の原形
真澄は縄文土器の他に、埋没家屋についても書いています。秋田県内の米代川流域は、915年に十和田火山が噴火したときの泥流によって平安時代の家屋が飲み込まれました。家屋がいまだに泥流の下に埋もれた状態で残っていて、それが洪水の時などに顔を出します。江戸時代にも度々そういうことがあり、真澄はそれを聞きつけて書いている様子がうかがえます。
例えば大館市の引欠川で見つかった埋没家屋については、真澄は実物を見ているわけではないが、こういう場所から土器が出てきて、棺やしかばね、ヒエやアワなども出たと聞いたことを発見されてから20年後に記述しています。実際に今、埋蔵文化財センターが引欠川を調査すると、片貝家ノ下遺跡という埋没家屋が埋まっている遺跡が見つかりました。竪穴式住居が屋根ごと発見されたのは日本で初めてです。
真澄の記録には、墓があってしかばねがあったと書かれていますが、実際に墓も見つかっています。真澄が記録したことが現在の発掘調査において確認されているわけです。真澄は、五城目町で出てきた古代の櫛、下駄も記録しています。鼻緒の穴が真ん中ではなく少しずれていることに真澄は少し驚いて書いています。実際に古代の下駄は右用と左用とが作り分けられていたことが発掘調査でも分かっています。江戸時代に真澄が見ていたものが、われわれの発掘調査でも結構出てきているわけです。
他にも、青森の観音寺から経筒、経甕が出土したのを真澄はアニメーション形式でしっかりと記録を取っていたり、横手市の雄物川町蝦夷塚では勾玉が出てきたと記録。実際に発掘調査をすると立派な勾玉が何十点も見つかり、この地域は非常に重要でもしかしたら幻の雄勝城が眠っている場所ではないかと今も調査を継続しています。
「最古」づくしの菅江真澄の評価
菅江真澄については、考古学界でも多くの人が評価しています。「縄文土器を描いた最古の記録」という評価の仕方です。例えば弘前藩士も縄文土器を描いていますが、出来栄えが全然違う。この人が描いた他の絵はうまいのですが、縄文土器に関してはラフに描いていて愛着がなさそうな印象を受ける。それに比べれば、真澄はしっかりと描いています。他に特筆すべきは、例えば遺物とアイヌ語の関係性についての考察。アイヌ語と民俗を結び付けた先駆的な指摘がなされていること。縄文という言葉を「縄形の瓦あるいは甕」など縄で模様を付けたということを初めて指摘したこと。土器の底に網代の痕跡があることを指摘した最古の記録を残したなど、結構、最古づくしです。
石器に関しても、形や技術、用途について今の考古学者がやっているようなことをしている。例えば真澄は、石鏃の形態を分類して石材の違いについても言及していますが、これは現在の石鏃の形態分類と同じです。非常に実証主義的な精神の持ち主だったのではないか。そして、描くという行為を通してよくモノを観察していること、旺盛な好奇心、行動力。一方で、非常にストイックな態度で擬古調の文体で記録する。そして、考察はするがあまり自分の感情を出さないという特徴があります。同時代人の古川古松軒が幕府の巡見使として東北を巡ったことを記録した『東遊雑記』のなかで、特に秋田に関しては風俗の義理・礼法は元より知らず、身を飾るということも知らずなど散々なことを書いている。それを読んだ真澄は古川について、「何か心に叶わなぬ事ありしや。さりけれど、ふみは千歳に残るもの也。心にかなはぬとて、いかりのまにまに筆にしたがふものかは」と書いている。冷静に書きなさい、ずっと残るのだからということを、普段は人を批判することのない彼にして珍しくこのように書いています。これは真澄の記録や執筆態度そのものなのではないかなと思います。いずれにせよ、真澄は非常に立派な記録を残していますが、江戸時代においては、それはなかなか学問として体系化されなかった。科学的な考古学の確立は、明治時代になってからでした。
菅江真澄の「旅」と「本能」
菅江真澄については、旅の目的はよく分からないと言われています。ガイドブックのようなものを刊行するためとか、スパイだったというような諸説はある。しかし例えば「旅」と「本能」いうことを考えると、好奇心が非常に優れていたのかなと私は思います。
真澄はなぜ旅をしたのかいろいろ考えられると思いますが、そもそも人には、人だけでなく動物には、探索行動というものがある。それが旅の原形としてあるのではないか。特に私たちホモ・サピエンスは好奇心が旺盛で、技術開発によっていろいろな場所に無限に旅をすることができる。そういう「場」の認識。社会的、文化的認識。他の動物は「場」を生存環境に適しているか否かという面で認識しますが、人間には文化的な認識がある。そうしたなかで自発的欲求に基づいた「場」から「場」への移動のひとつとして旅があるのではないかと私は考えています。
フィクションとノンフィクションのはざまで
真澄は当初は目的が何かあったのかもしれないが、いずれ旅を続けていくなかで経験や学びや、そうしたもののなかでイメージなどが出来上がってきた。自分はこういう人間だ、こういう仕事がしたいと思うようになった。そうした自己実現みたいなもの、欲みたいなものがあって旅へと突き動かされたのではないか。もしくは、いろいろなものをしっかりと記録するという感情を呼び起こされたのかなというふうに私なりに想像しています。
記録とは、沢木耕太郎が『深夜特急』のなかで述べているように、フィクションとノンフィクションのはざまなのかなと思います。ルポルタージュであっても完全なノンフィクションはありえない。菅江真澄も、そういうところがあったのではないか。真澄は紳士的に、あまり感情をぶちまけずに抑制を利かせながらも、記録によって自己実現をしていく欲求があった。欲求と抑制のはざまのバランスのなかで記録を取っていったのではないかと思います。
Profile
吉川耕太郎
Information
展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」
■会期|2020年4月25日(土)~7月5日(日)
■会場|詳細は2020年2月に公開(秋田県内の美術館)
■出展作家|岩井成昭・岸健太・迎英里子・長坂有希・藤浩志
■リサーチアソシエイト|石倉敏明・唐澤太輔・小松和彦
■グラフィックデザイン|吉田勝信・梅木駿佑・土澤潮・北村洸
■企画監修|服部浩之
■企画運営|NPO法人アーツセンターあきた
(岩根裕子・石山律・藤本悠里子・高橋ともみ)
■主催|秋田公立美術大学・「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」実行委員会(設立予定)