Index
プロジェクトを公開しながら、出来事や時間などかたちを持たないものを描き出す新たな試みとして開催する展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」。その起点となるプロジェクトとして8月20日、「菅江真澄をたどる勉強会」を開催しました。
第1回「菅江真澄をたどる勉強会」
日時|8月20日(火)18:00〜20:00
場所|秋田公立美術大学 アトリエももさだ 作品展示室
ゲスト|
吉川耕太郎(秋田県教育庁払田柵跡調査事務所)
小松和彦(小松クラフトスペース・秋田人形道祖神プロジェクト)
内容|
・レクチャー
「考古学からみた菅江真澄について」吉川耕太郎(記録はこちら)
「秋田人形道祖神と菅江真澄について」小松和彦
・ディスカッション(記録はこちら)
「真澄と美術との接点の作り方」吉川耕太郎、小松和彦、石倉敏明、服部浩之
吉川耕太郎氏に続いて、小松和彦氏が「秋田人形道祖神と菅江真澄について」と題しててレクチャー。人形道祖神の調査をする過程で出会った真澄像について語った小松氏のレクチャー記録を公開します。
災いや悪霊から村を守る「人形道祖神」とは?
私は秋田駅前で小松クラフトスペースという工芸ギャラリーを運営する傍ら、郷土史研究家として活動しています。これまで、秋田県の遊郭に関する調査をはじめ、昨年からはイラストレーターの宮原葉月さんと一緒に秋田人形道祖神プロジェクトというユニットを結成し、活動をスタートさせました。『村を守る不思議な神様』では、秋田県内各地の人形道祖神を取材しています。
道祖神とは、疫病などの災いや悪霊から村を守る民間信仰の神様のこと。村境や道端に石碑や男性型のシンボルとして祀られ、村を守る他にも交通安全や子宝、縁結び、家内安全などを祈願します。その起源となる神様は、『古事記』『日本書紀』のイザナギ・イザナミの神話のなかに悪霊を防ぐ神様として出てきます。平安時代の百科事典には「道祖、和名・塞の神」として明記化されました。道祖とはもともと中国の道の神。それが日本の悪霊を防ぐ「塞の神」と習合し、さらに仏教の地蔵とも習合しました。
今日は道祖神の話ではなく、藁や木で作られ村境や神社にまつられる人形道祖神について話したいと思います。年に1度から3度、主に春と秋に作り替えが行われています。人形道祖神は決して一般的な名称ではなく、民俗学者・神野善治が命名した学術専門用語。神野先生の解釈では、これらの人形こそが道祖神の原形ではないかと考えられています。
なぜか秋田に集中して存在する人形道祖神
『風俗問状答』という江戸時代後期の記録には、人形道祖神の形態を書いたものがあります。村で疫病が流行すると藁で大きな人形を作り、剣を持たせ、鍾馗のような赤い顔をして、牛頭天王の札を腹に貼り、村の入口に置く。今でもこういった人形が秋田県内各地の村境に置かれています。東日本各地に分布していますが、なぜかほとんどが秋田県内にあります。でも皆さんがもし人形道祖神を訪ねてみたとして、「人形道祖神はどこですか?」と聞いても、多分、地元の人はポカンとして「そんなものはありません」と答えるでしょう。なぜならそれぞれの地域によって名前があるから。人形道祖神は各地でカシマサマ(鹿島様)、ショウキサマ(鐘馗様)、オニョサマ(仁王様)、ニンギョウサマ(人形様)などの名称でまつられています。
神野先生が1991年に作成した人形道祖神の分布図を見ると、とりわけ秋田県に集中していることが分かるのですが、県内全域にあるわけではなく、沿岸部の秋田市や男鹿南秋地域などには全くない。多くが大館市周辺。そして県南の仙北から湯沢にかけての横手盆地に分布しています。
真澄は人形道祖神を詳細に記録した最初の人物
今日のテーマである菅江真澄は、秋田の人形道祖神を詳細に記録した最初の人物です。先ほど吉川さんから、縄文土器や土偶を詳細に記録した最初の人物が菅江真澄だと説明があったのですが、実は人形道祖神についてもほぼ最初の記録者です。同じようにナマハゲについても最初の記録者で、それは特筆すべきことだと思います。
これは、真澄が現在の大仙市にある村の風景を描いた図です。橋が架かっていて、村境に両手を広げた人形がある。これがいわゆる人形道祖神。ここでは草二王と呼ばれていると書いてあります。春と秋に5尺の草人形を作り、刀を持たせる。これは疫病を避けるためにまつられているもので、秋田にはたくさんあると記している。もうすでに、秋田県内に人形道祖神が数多く分布していることを真澄は指摘していたわけです。
ダムの底に沈んだ村を見下ろす男女一対の御神体
ここからは、菅江真澄が記録したもので、今、私たちが人形道祖神と呼んでいる人形の神様が実際に現在でもまつられている例を見ていきたいと思います。
1802年12月12日。真澄が桐内村で見たという「避疫神蒭霊(ひえきがみくさひとがた)」について。記録を見ると、赤い面と青い面を付けた男女一対の人形があり、雪の中にこれらが立っていたのでびっくりしたことが記されています。桐内村は現在の北秋田市森吉ですが、現在はどうなっているかというと、このように森吉ダムに沈んでいる。
よって村自体は、現在では見ることができません。昨年の12月21日という、まさに真澄がこの村を訪ねたほぼ同じ時期に、道祖神が雪の中で現れてびっくりするのではないかと期待して行きました。残念ながら村はダムで沈んでいましたが、そこの人形道祖神はまだ残っているという情報をつかんでいました。
ダムを見下ろす高台に、ダムに沈んだ14の集落にまつられていた御神体が一つの神社に集められていました。そのなかに木の頭部が2つ置いてあった。これは真澄が雪の中で見てびっくりした避疫神そのものなのか、もしくは、その子孫に当たる神様と考えられています。雪が比較的少ない年でしたが、膝までの雪をこぎ分けて行かなければならない場所にありました。残念ながら現在は頭部だけになってしまいましたが、どういった形をした人形だったか参考になる人形道祖神はあります。
これは能代市二ツ井町にある小掛のショウキサマです。ショウキサマという神様がここの集落では2体まつられている。こちらは村の入口、橋のたもとにある男のショウキサマ。こちらが村の出口にまつられている女神のショウキサマ。鍾馗は髭もじゃのいかついおじさんの神様なのですが、なぜかこちらのショウキサマは女性です。これらの頭部は桐内の神様と形が似ており、1枚の板を削って目と鼻を彫り出している。男神と女神はそれぞれ立派な性器を持っています。毎年9月のお祭りでは男女の神様を向かい合わせて性器を合わせ、その周りを村人たちが数珠で囲んで念仏を唱える。もしかしたら、桐内でもかつてはこういった儀式が行われていたのかもしれません。
最も古い形態の人形道祖神
続いて、1807年春に現在の大館市にある雪沢村で見た避疫神(ひえきがみ、またはさえのかみ)について。小雪沢の先を越えたところの道の傍らにある木で作った人形は、朱色に塗って剣を持たせ、武人のようなこれを小屋に入れ、蒭霊(くさひとがた)と同じく疫病を避けるためにまつり、春と秋に作り替えたり塗り替えたりすると真澄は書いています。道祖神の形態を記した最も古い記録と言われる平安時代の『外記庁例』にも、京の道端に朱色に塗られた男女の木像が建てられ、それぞれに性器が付いており、その前に机を置き、供え物として花を飾っているとあります。真澄が記録した朱色に塗られた男女の木像というのは、最も古い形態の道祖神の特徴をもっていることになります。
雪沢地区は大館市と小坂町の町境に近い場所。ここに通称・樹海ラインと呼ばれる県道があり、かつて小坂鉄道も走っていました。そのライン上の小雪沢、大明神、新沢、二ツ屋という4つの集落に、現在でも朱色に塗られた木像がまつられています。これは一番西側の集落、小雪沢の一番西側にあるドジンサマ。この地域では道祖神のことをドジンサマと呼んでいます。真澄の時代は男女の木像が一緒に並べられていましたが、現在では東側と西側の端に分かれてまつられている。これが東側の男のドジンサマ。朱色で塗られたところに顔が描かれ、両手はない。毎年6月に小雪沢のドジン祭があり、毎年、ベンガラで塗り替えが行われています。
この木像に関して言うと、もしかしたら菅江真澄が記録した避疫神という図絵に残したものの、恐らく何代か後のものではないかと思っていました。しかし塗っている時の状態を見ると、200年前のものと言ってもいいのではないか。実際に90歳近い方に聞くと、その方が子どもの頃にはもう両手がなく、今とほとんど変わらなかったと言言います。もしかしたらこれそのものが、真澄が絵に残したものなのかもしれません。
村の入口と出口で、時を超えて
その隣の大明神という地域では、神社の中に2体がまつられています。恐らく昔は村境にまつられていたと思いますが、現在では神社の中に並んでいる。新沢という村では、真澄が絵で描いたように男女一対のドジンサマが仲良く並んでいます。村の東側の境にもう一対並んでおり、この村には男2体、女2体の合計4体のドジンサマがまつられているということになる。毎年夏にドジンサマのベンガラを塗り替え、顔を描き変え、公民館のなかでは鹿島人形を作る。船に3体のお父さん、お母さん、息子というふうに3体の藁人形が立てられる。この数日後に新沢のドジン祭と鹿島流しが行われる。鹿島流しとは、藁人形に厄を託して川に流し、人形と共に悪いものを流すというもの。ここの集落ではドジンのお祭りと人形送りの祭りを同時に開催しています。ドジンサマに酒を飲ませ、シトギという米粉で作った餅で封をして神に供える。最後は鹿島人形を川に流して祭りは終わり。ドジンサマは元に戻る。
樹海ラインは結構交通量のある道ですが、ここから外れた二ツ屋は一番奥まった場所にある集落です。長木川という川が流れ、このあたりは長木沢と呼ばれ天然秋田杉の有名な産地でした。二ツ屋の入口の橋を渡って村に入っていくと小屋があり、中に二ツ屋の下のドジンサマが男女一対でまつられている。先ほどの小雪沢や新沢は裸に腰みの1枚でしたが、こちらは白い着物を着ている。口のなかが黒くただれているのは、かつてシトギを押し込まれた痕跡です。
そこから約100メートル西の山中に、新沢へ続く旧道が伸びています。山道を行くと二ツ屋の上のドジンサマが男女一対でまつられている。その脇には道切りと言って、悪いものが外から入ってこないようにというまじないの注連縄が締めてある。現在、二ツ屋の人口は10数人ですが、かつて藤田組(現、DOWAホールディングス)の長木沢製材所がここにあった時代には、3,000人もの人が住んでいました。天然秋田杉を伐採し、製材して売り込む巨大な製材所で従業員が550人いた。しかしこういった民俗行事は、そういう時でさえも残っている。ドジンサマのある場所は製材所ができる前からの入口と出口でした。そこに道祖神をまつっているというのは、聖域として動かせなかったのだろうと思います。
今に残る、魔除けの行事
終わりに、美郷町にある本堂城跡の人形道祖神について話します。真澄が本堂城跡を描いた図絵に、藁人形が立っている様子が絵で確認できます。こういった草人形は草二王と呼ばれ、このあたりのどの村にもあり珍しいものではないが、本堂城跡の藁人形は大層、手の込んだ作りだと真澄は記しています。
この場所は美郷町と大仙市のちょうど境界にあり、そこには戦国時代に本堂氏という大名の居城がありました。毎年6月に作り替えが行われ、城跡でこのように人形を作っています。ここのショウキサマも昭和30年代に作り替えるのを止めてしまい、お面だけをまつっていたのですが平成元年からもう一度作ろうと復活しました。この地域にはニオウサマがなまってオニョサマとも言う人形道祖神が数多く分布していたのですが、多くはお面だけとなりました。かつては藁人形の顔にかぶっていたお面ですが、藁人形が作れなくなってからそういったお面だけをまつる集落が多いようです。
真澄が記録した人形道祖神ではありませんが、大館市山田のジンジョサマという有名な人形道祖神があります。1つの村にある8つの町内がそれぞれ男女2体のジンジョサマと呼ばれる人形をまつっています。例年12月上旬頃に行われるジンジョ祭というのは、町内を回って歩いてジンジョサマをぶつけ合う奇祭ですが、実はぶつけ合う前に行われる儀式が結構ある。それが真澄の記録のなかにあったりします。
これは八皿の儀。小さな7つの盃の酒を注ぎ、それを大きな器に移して飲むという無病息災、豊作祈願の行事。真澄もスケッチで紹介していますが、こういった真澄が記録した秋田のまじない的な行事も、現在、この地域では人形道祖神の祭りの中で行われています。
これはマドフサギといって、山吹の枝と笹の上に米を載せて魔物が入ってこないようにする魔除けのおまじないです。有名なのは「軒の山吹」という、現在の秋田市金足地域で軒下に山吹の枝をたくさん刺し、そこにお餅をぶら下げて魔除けをする様子を真澄はスケッチしています。200年経っても今もこういった行事が残っているというのは、非常にユニークなのではないかと思います。
分類学的に考察した真澄の観察眼
最近、私は「人形道祖神研究の元祖」といえば、菅江真澄だと思っています。真澄は記録のなかで、平鹿の鹿島人形、草二王、牛頭天王、比内(大館)の避疫神などはいずれも疫病を避けるための祭りであるとしています。まつられている地域や素材、姿、名称の違う人形を共通の目的で作られた信仰の対象として分類、カテゴライズして、それが現在の秋田県内に数多く分布しているということに着目しました。これは神野善治先生が人形道祖神という学術用語を提唱するより200年も前から、カシマサマやドジンサマを分類学的に考察した、真澄のまさに観察眼の鋭さです。そういったことから菅江真澄という人物は、人形道祖神研究の祖であると思います。
そして、何より、真澄が記録した人形道祖神が、200年経った現在でも村を守っているというのは、非常に衝撃的です。真澄の時代から続いている風習というのが、まだ秋田に残っているのだということをいろいろな方に知ってもらいたい。私たち秋田人形道祖神プロジェクトは、各地を取材した写真なども載せてウェブで紹介しています。『村を守る不思議な神様』『村を守る不思議な神様2』もぜひご覧ください。
Profile
小松和彦
Profile
Information
展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」
■会期|2020年4月25日(土)~7月5日(日)
■会場|詳細は2020年2月に公開(秋田県内の美術館)
■出展作家|岩井成昭・岸健太・迎英里子・長坂有希・藤浩志
■リサーチアソシエイト|石倉敏明・唐澤太輔・小松和彦
■グラフィックデザイン|吉田勝信・梅木駿佑・土澤潮・北村洸
■企画監修|服部浩之
■企画運営|NPO法人アーツセンターあきた
(岩根裕子・石山律・藤本悠里子・高橋ともみ)
■主催|秋田公立美術大学・「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」実行委員会(設立予定)