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菅江真澄『軒の山吹』(写真:秋田県立博物館提供)

菅江真澄のモチベーションの源泉は?

観客A 大変、面白いお話をありがとうございます。旅をするときに理由を考えていて。最初は、真澄は旅ではなくて、出奔じゃないのかなって僕はずっと思っていまして。一番の謎はその理由なんですけれども。

石倉 確かに、彼の人生で何があったのかというのは謎のままですね。

小松 そうですね。失恋とか、いろんな話が出ていますよね。

石倉 自分について語らなかったということですよね。

服部 分からないんですよね、結局。モチベーションの源泉は、誰も。

小松 ええ。徹底して自分のことを書いていないですよね。

石倉 今はあまり「俺は天才だ」みたいな学生ってあまりいなくて。自信がないとか、自分に関心がないという人もいて。それは現代的かもしれないですね。

吉川 ある種のアートというのは、自己表現みたいなところってないんですかね。

石倉 もちろんあるんですけども。アーツ&ルーツ専攻では、小中高とずっと自己表現フォーマットできた美大生をいかにそこから自由にしてあげられるかということで、「フィールドワークに行くといいよ」と言ったりするんです。自分って何なのかっていうところにはまってしまって何も出なくなるよりは、他者と出会うところから始めて自分が見えてくる。

服部 外にきっかけを求めることを割と奨励しているところはありますね。そういうアーティストは今、多いといえば多いですね。自己表現というよりは、作品を作ることが社会との接点のきっかけになっていたりとか、なぜ存在しているのかというところが自己表現というよりは、もう少し外の世界との関わり方を考えるところからスタートする。ちょっと話がずれちゃったんですけど。

石倉 僕らの世代はバックパッカーって、自分探しの旅に出る人がいっぱいいました。文化人類学者としてはそれに対して抵抗したいなっていうのがあって、僕も別の旅の仕方を模索してきました。例えばティム・インゴルドという人類学者が「文化人類学というのは、魂と世界の関係をつなぐ行為なんだ」と言っているのですが、そういう技術として旅が要請されてきたわけです。これはもしかしたら、アートにも共通することかもしれません。旅をすると、魂と世界の間に自己というものが浮かんできたり、消えたりするんですけど、それはずっとそこにあるものじゃないんですよね。世界探し、魂探しをしていくと、自然と自己というものは付いてくる。そういう意味では、菅江真澄のクールさというのは、「自分探し」の対極に通じるのかなという気がしますね。

吉川 結局、自分探しのために旅に出ても、ほとんどの人は失敗しちゃうというか、結局、旅に出ても何も見つけれないじゃないですか。

石倉 うん、自分って、いないんですよね。

吉川 いないですよね。真澄はそこでさまざまなものを見つけたっていうのは、30歳になって教養が非常に深かったんでしょうね。

菅江真澄『軒の山吹』(写真:秋田県立博物館提供)

その「場」で記録するということ

観客B 菅江真澄の観察者としての視点はすごく面白いなと感じました。実証的でもあり客観的で。そして、クールですね。そういうところを見ていると、彼の文章を読んでいると僕は透明感を感じるというか。ただ、厚い透明という感じがしてて。厚さって一体どこから来るんだろうと考えていたら、多分、対象とか相手に対する敬意じゃないかなっていう気がするんです。敬意とかがなければ、あれだけ書けないと思うんですよ。自由でありながら敬意を払うというのは、アーティストにとってもすごく大事なことだろうし。そこら辺は、すごくヒントになる人なんじゃないかなと思いました。

菅江真澄は博物学者とも言われるわけですが、どこかに行って何かを譲ってもらったり、買ったりして、自分の手元に置いているということはあったんでしょうか。

吉川 私はあったという話を聞いたことがないです、言われてみれば。

小松 真澄は蓑虫山人とよく比較されますが、あの人は相当コレクターですよね。あまりにも土器を取り過ぎて、青森から出なきゃいけなくなったりするぐらい。非常に対称的だなと思いますよね。

観客B これは勝手な僕の妄想ですけど、多分、そういうものとか事柄というのを、その場でしか成立しないというふうに考えていたんじゃないかなって。買って持ってくるっていうことは、場所性が失われてしまうから意味がない、だから記録するしかないっていうふうに思っていたんじゃないかなと。勝手な僕の妄想ですいません。

石倉 面白い仮説ですね。そうですね。ものを収集して、分類して、そして展示するっていう博物学的な知識はありながらも、彼は本当にひょうひょうとしていて、所有するというイメージが全然ないですよね。その場で生まれてくるものとしての記述とか記録。そういう意味では、彼の『菅江真澄遊覧記』は、それ自体が一つの何かイメージになっているわけですよね。ものになっているんだと思うんですけれど。これは非常に大きな宿題というか、ヒントが得られたような気がします。

服部 今回、美術の展覧会において、どうやって菅江真澄からきっかけをもらって、今の現代の表現につなげていけるかを考えるための勉強会の第一回目ということで、まずお二人に来ていただきました。

石倉 形は変わる可能性はありますけど、継続して勉強を続けていきたいなと。

服部 はい、続けていきたいと思います。今、芸術表現でも、個人ではなくて、例えば誰かと一緒に何かを作るということとか、領域を横断しながらやっていくということがいろいろなところで実践されていると思います。僕らの大学での学びの方向としては、内にこもらないで、違う経験や違う知識を持っている人と、自分たちが持っているものをシェアしながら学び合っていく中で新しい物事を作っていけるといいなと考えています。展覧会って多分、できたものを人が鑑賞するというものだと思われている、そういうものになっていることが多いんですけど。作っていく過程をどうやって知恵を出し合って考えていけるかということも開いていけないかということで、あえて勉強会というものをオープンにさせていただきました。

きょうも別に結論が出たわけではないので、引き続きご相談しながら、どういう形で展覧会というものができるのかということを考えていきたいなと思います。そのためにはかなりいろいろなヒントがあって、前には進めた気はしています。まだまとめることまでには至っていないんですけれど、旅の始まりは表現の始まりって石倉さんが言われて、なるほどと思いながら感じておりました。

石倉 いきなりアートとの接点と言われても、お二人とも困ったと思うんですけども。こういうブレーンストーミングを通して、新たに見えてくるものもあるのかなと。

小松 私が人形道祖神の何に引かれるのかというと、今でも現在進行系で、集落の人たちが藁人形を毎年、作り替えている。それは真澄が記録した200年前から変わらずにやっている所もあったりする。まさに村の象徴として当時から残っていることにじわじわ来るものがあります。もし真澄とアートを結び付けるのであれば、真澄が描いた絵と道祖神とを比較しながら見て、さらに現代の、それから宮原葉月さんのように、道祖神からインスパイアされた作品を三つ並べて見られるようなものができると面白いかなと思っているんです。本当の道祖神を借りてくるのはなかなか難しいんじゃないかなと思われるかもしれませんけど、例えば今日紹介した本堂城回の鍾馗様は、美郷町の歴史資料館に全く同じものがあったり、ドジンサマも今、祭りが行われていない地域のものと、真澄が描いた絵と比較して見ると、プリミティブアートとしての人形道祖神の魅力みたいなことなどが発見できるのではないかと思ったりしています。

吉川 菅江真澄とアートとの接点については正直、難しいなという印象です。真澄の展示といえば、真澄の描いた図絵と、描いたであろう実物品を並べて展示するというのはオーソドックスな博物館的な展示方法ですよね。でもそれとは全く違う観点からということで。形のないものを見せていくには、どういう展示があるのかなと考えていたんですけれど、まだ自分でもイメージが湧かないですね。そういう展示を見たことがないので。

服部 そうですよね。僕も見たことがないです。

吉川 すごい新しい試みですね、来年ですよね。

石倉 ぜひ一緒に考えていただけるとありがたいと思っています。われわれもこれからいろんな可能性を現実化していかなければいけないので。

服部 そうなんですよ。現実にしていかなければいけない。

石倉 ですね。今後も勉強会は続きます。一方的に何か知識を与えるというよりは、お互いに勉強するような会を続けていければと思います。今日はありがとうございました。

Information

展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」

■会期|2020年4月25日(土)~7月5日(日)
■会場|詳細は2020年2月に公開(秋田県内の美術館)
■出展作家|岩井成昭・岸健太・迎英里子・長坂有希・藤浩志
■リサーチアソシエイト|石倉敏明・唐澤太輔・小松和彦
■グラフィックデザイン|吉田勝信・梅木駿佑・土澤潮・北村洸
■企画監修|服部浩之
■企画運営|NPO法人アーツセンターあきた
(岩根裕子・石山律・藤本悠里子・高橋ともみ)
■主催|秋田公立美術大学・「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」実行委員会(設立予定)

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