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記憶のスクリーンを通してみる
世代としての「主題」

石倉:その後に、今度はもう一度薄暗い岩井さんの作品展示室に入っていく。すると、ヒッチハイクによる放浪や車による長距離移動の主題が立ち上がってきます。岩井さんはたしか菅江真澄という人物に共感しているわけではないんだ、というようなことをオープニング・トークのときにおっしゃっていました。本作に反映されているその距離感も、とても面白いと思います。人物として共感していないと言いながら、やはり岩井さんの作品は真澄という歴史的な存在を強烈に意識していますし、配慮もされていると思うんです。

岩井:はい。長坂さんの作品と菅江真澄の写本との位置関係に暗幕が象徴的に介入していたという話を受けて、私のスペースに関して言及すると、おそらく第3室が最もガラスケースの意味作用が強い部屋ではないかと思います。ガラスケースというのはモダニズム的なもので、現代美術館にはほとんどない。ケースの中には1980年代の絵画もあるので、そんなに古いものではないのに、ガラスケースの中にあることで、モダニズム的な鎮座感を醸し出しているのが印象的でした。その中に菅江真澄の資料と現代の作家たちが描いた鉱山風景が共存している。しかし、それはガラスケースという過去の領域内に存在する。近代美術館の設備が作りだす時系の断層をトータルなインスタレーションとして利用できたと思います。

石倉:普段、ガラスケースに入っているものは蛍光灯の下で鑑賞することが多い。対象をはっきり見るために、蛍光灯が天井からぴかっと光っていて、ガラスの中に保護されてあるものを鑑賞するという態度です。しかし、岩井さんの展示室では、博物館で鑑賞するのとは全然、違う見え方をしていることに気づきました。つまり映画的というか、イメージ的というか、何か記憶のスクリーンを通して見るようなものに変成している。オープニング・トークで、岩井さんは移動体験の背景となっている「世代」に認識について語っていらっしゃいましたけど、鳥海山を背景に撮影された大きな写真作品にも、実は世代や性別の違う二人の人物が写っていましたね。

岩井:そうですね。被写体の二人からは話題が離れますが、やはり、どうしても世代論は避けて通れなくて。けれども押しつけたいわけでも決してなくて。自分が生きてきた記憶を遡って旅をしていくと、こんなにも社会が大きく変化していくことに、ただただ呆然としている自分がいます。私たちの世代にとって、アメリカという国の存在はとても大きかった。私が享受したアメリカは、マッチョではない弱いアメリカなんです。初めての負け戦だったベトナム戦争があって、その終結後には帰還兵たちが社会から疎外されて、第2次世界大戦後とは真逆の扱いを受けて、彼らは居場所を失い放浪せざるを得なくなって、最後は見知らぬ土地で死んでいく。ロードムービーはそんなプロットが多かった。
その中で生まれてきたのが、アンチヒーローという存在です。このアンチヒーローという概念は、少し前のビート・ジェネレーションに源泉があると思います。ロードムービーを量産したアメリカン・ニューシネマは第2次世界大戦の終了後、1950年代ぐらいにピークだったビート文学に強い影響を受けた世代の監督が撮っています。アメリカのような国力のある国が内省的で謙虚になることはすごく大切なことでした。そこから生み出された文化が僕らにも伝播してきて、その中で育ったという自負があるんですね。染み付いてしまったものは仕方がない。自分の作品の中であえて主張することではありませんが、今回は開き直って主題に取り入れたというのが正直なところですね。

石倉:実は、「大学の先生」という職業的レンズを持って見てしまうと、アーティストの作品の印象が歪んでしまったり、教える立場と教わる立場みたいなものが鑑賞を邪魔したりすることもあると思うんです。しかし、今回、岩井さんが一人のアーティストとしてやりたかったことを完遂して、はっきりと提示されたんだな、ということを強く感じました。岩井成昭という作家の「男のロマン」を感じるというか(笑)。

岩井:ロマンあるいはロマンチックという言葉、今までまったく興味がありませんでした。でも、ロマンでもいいのかなとちょっと思ってきました・・最近は(笑)。

石倉:その発見というか、すがすがしさを感じますよね。

岩井:先ほど、真澄のオリジナルを後世の人々が写していくことで、一般的には写本が浸透していく話があったんですが、これは意図せずとも美術史の中で常に起こっていることです。もっとも分かりやすいのがギリシャ時代の美術です。ギリシャの美術品というのは実はあまり残っていなくて、現代の人々はギリシャを模していたローマ時代の美術品によってその価値を知ることができたわけです。真澄のオリジナルは残っていますが、一般に普及するという意味においては近い現象かもしれません。オリジナルとリメイクの問題は、美術史の中で繰り返し出てくる問題ですね。

石倉:それはイメージの複製という表象の問題であると同時に、ギリシャ神話からローマ神話へ、という異文化へのイメージ翻訳という大きな問題でもありますよね。岩井さんの作品周辺にも、アメリカから秋田へと、現代の異文化に関するさまざまな神話が翻訳されていますが、インスタレーションと写真・映像の関係、そして収蔵作品との関係も照明効果によって絶妙にコントロールされていたと思います。

考古資料と記録画が
多層的なパフォーマンスと対峙する

石倉:次の、迎さんの展示室に移動すると、照明は一転して明るくなり、ガラスケースの印象もガラリと変わります。高い天井の、開放的な空間。全てを映すクリアーな照明の下で、あらゆるモノが共存しなければいけないという難しさがあったと思うんです。しかも周囲に配置されたガラスケースの中には、縄文土器や土偶とその記録画という、視覚的な強度がとても強い考古学資料も展示されていました。空間的な配置に関して配慮が必要なところもあったと思うんですが、迎さんはどんなふうに感じていましたか?

迎:見せ方の話として、初めは混ぜようかなと思っていたんですが、実際に置いてみるとお互いに干渉し合って、どちらにとっても良くない構造になってしまったんです。最終的には第4室に入って右側に菅江真澄の図絵があって、左に進むと絵と写されたものがあって、その向こうに破片があって、さらに壺みたいなものが置いてあるという流れにして、そこから作品のほうに没頭できるような流れにしました。というのも、土器というものもあるし、それらが入っているケースがそもそもものを見せるために完結された舞台として完全にできてしまっている。私が何をしなくても、そこで展示物として完結できるのだと。なのでそれらを見てもらった上で、私の作品のほうに集中できるような状況にしようと思いました。

石倉:壁際のガラスケースと中央のオープン・スペースを分けることによって、土器や蓑虫山人の記録画もクリアになって、互いの文脈の違いや深い共通性も際立って見えてきたなという気がします。両者が混在するような配置だと、もしかすると、迎さんの作品を、縄文土器の発掘作業を再現している作品なんじゃないかと誤解をされてしまう可能性もあったと思います。モノと映像、さらにパフォーマンスという多層的な作品を制作する上で、何か注意していたポイントはありますか?

「移動」と「境界線」をテーマにその構造を立体に移し替えてパフォーマンスを展開する迎英里子

迎:私はこれまでも、モチーフがあってパフォーマンスをつくる、というような作り方をしてきました。モチーフが何かを言わないときもよくあって、そうすると見る人が各々の想像を巡らせることになります。例えば作品がある場所と結び付けることも、一緒にある何かと結び付けることもあると思います。社会的にタブー視されていて、それにアクセスするのが少し難しいとか、考えるのに疲れるみたいなことにどうすれば近づけるのか。もしくはクッションを敷いてどう辛くならずに考え、常にアクセスできるのかということを考えていて。だから作品に《アプローチ》というタイトルを付けています。ある意味、完成されて、もう成り立っているシステムがそれだけで美しいというか、面白いと思っていて。それを借りて作品として出しているだけなので、別に正解を見つけなければいけない作品では全くないんです。なので、想像、思考を巡らせていただくことができればいいという感じです。

石倉:なるほど。たしかに多義性に委ねるような自由さを感じさせてくれます。自由さといえば、蓑虫山人の絵も割と自由度が高く、考古学のアカデミックな制度にも収まりきりません。それでも、蓑虫山人は自分で発掘して、見つけだした土器や土偶を描いているんですよね。菅江真澄が旅した江戸時代、珍しい形の土器や土偶は、古代人の遺物として扱われていました。蓑虫山人が旅した明治時代には、その発掘物がどういう時代に作られたもので、おそらく列島の祖先の制作物だということが、うっすらと見え始めていました。その上で、蓑虫山人は学問と芸術の境界をゆったりと往還していたのだと思います。

迎:今回、プロジェクトや作家それぞれがそれぞれに行動したけれど、流れは勝手にいいようにできたなというように思います。長坂さんの、ストーリーをイメージと共に流して、物質はほとんどないような状況の展示室があって、その次に岩井さんの部屋に行くと物質はあるんだけれど物理的にベールに覆われていて、写真ともの自体を見るというよりも、そこに含まれているレイヤーとかバックグラウンド、文脈とか、それを想起するような部屋になっていて。その後、私の部屋に行くと、急にものの話になってくるというような。そこから外に出ていく流れができていて、勝手に面白いなというふうに思っています。

石倉:ありがとうございます。迎さんの展示室を抜けて階段を上がっていくと、今度は藤浩志さんの個人的な活動記録を通して、日本の現代美術史を総覧するプロジェクトへと導かれていきます。この作品は、藤さんのように、長いキャリアの中で膨大な活動を行うだけでなく、自分と他者の活動を記録し続けているアーカイヴの精神は本当に稀有だと思います。こんなふうに、本展は全体としては菅江真澄という象徴的な人物を取り上げつつ、3つの領域横断的で学際的なプロジェクトと、世代もジェンダーも違う4人の現代作家が作品と展示を通してつながっています。少し複雑ではありますが、その特徴や本展の見方みたいなものは少し想像していただけたのではないかなと思います。

記憶と記録の再構成を試みた藤浩志《Chuta Report 【チュウタの観察帖】》 古民家、資料、ウェブサイト、映像、その他/サイズ可変

菅江真澄を表現の軸とした
多分野的で多層的な現代美術の旅路

石倉:とても多分野的・多層的で、いろいろなアプローチが取られている展示空間を通り抜けていくのが、この展覧会の醍醐味だと思います。菅江真澄や蓑虫山人といったユニークな旅人の姿が見えてくるだけではなく、今の時代、移動が制限される中でアーティストたちはどうやって「移動」を主題化しているのか。歩くこととか、乗りものに乗ることとか、人間以外のものが移動していくこと、あるいは人間が運んでしまうことなど、いろいろな問いが含まれていると思います。3人の作家さんたちの言葉からも、そういったことを受け取っていただけたのではないでしょうか。本展示が、もう一度移動という経験を取り戻すためのヒントになることを願うばかりです。
さて、少し時間がありますので、何か質問があればお受けしたいと思います。

飯岡 陸:1月に関連トークとして迎さんとの対談にお呼びいただいた、キュレーターの飯岡と申します。そのときに準備中のお話を聞いていたので、どういうふうに展覧会に結実したのかなと、今日は楽しみにして来ました。単に菅江真澄をトリビュートすることを超えて、その活動を手掛かりに、長坂さんは3万年という想像できないような大きな時間軸を扱われ、あるいは岩井さんの扱うアメリカへの憧れを巡る戦後史の軸もあり、他方で迎さんは「移動」という非常に抽象度の高い応答をしています。真澄が生きた時間を起点にしながらも複数のスケールの時間、抽象度が折り重なった展覧会となっていて、大変興味深く感じました。

まずは長坂さんにお伺いしたいと思ったのが、普段アーティストとやりとりしていると、悩んでいるポイントというのがあり、それを作品の理解の助けにすることが多いです。トークのはじめに作品の差し替えについてお話ししていました。具体的にはどのような修正をされたのかお伺いしたいです。
次に迎さんにお伺いしてみたかったのが、迎さんは複数の造形的なレファレンスをうまく参照することで抽象度を操作しているようにもみえます。今作では黒と黄色の色彩や、表面がてかてかした豆のような造形が印象的だったのですが、もしレファレンスがあればぜひ話を聞きたいです。

これは偶然なのですが最近、アメリカが経済成長を遂げていくなかで、奴隷として連れてこられたアフリカ系移民を含む労働者たちが替え歌みたいな形で創意工夫しながら、どのようにフォークソングを歌い継いでいったのかを追うウェルズ恵子さんの『フォークソングのアメリカ ゆで玉子を産むニワトリ』という著作を読んでいました。岩井さんが扱われた車のデザインもまさしく、先行世代や市場を意識しながらその時々のデザイナーが独創性を探求し、世代を重ねていくフォークソングのようなものかもしれないですよね。それは先ほどお話しされていた写しの問題にもつながると思います。今回、ある時期の既存の車を再現するというのは、思い切った決断だったと思うのですが、実際にそれを自身の手で作られて、どういうことを思われたのかをお伺いしたいです。

長坂:映像の差し替えについては2つ理由があります。ひとつは、今年(2020年)になってコロナが流行して、多くの人にとって移動しづらくなったと思うのですが、私の個人的な生活においては真逆で、9月から香港の大学で博士課程研究を始めたので、日本と香港を行き来するという今までになく移動の多い生活となりました。以前だったら自分のスタジオがあったり、スタジオがなくてもある一ヶ所にいてそこで制作することができたのですが、9月からは常に移動の中で制作をしなければならず自分が思っているレベルまで完成できなかったという現実問題がありました。

そうなるであろうということが分かっていたので、ではこれをどう捉えて、自分としてどう納得できるだろうと考えたときに、菅江真澄さんもずっと移動を続けながら図絵を描いていて、何度も書き直していたことを思いました。その土地で描いたものを泊まらせてくれた人にあげ、次のものを描いてそこでまた改良して、また次のものを描いてと常に描きながら改良していく作業を多分亡くなるまでしていたことを思い浮かべていました。だから、そういうこともあるんだなということも考えていました。

私は作家にとっての制作と展覧会の関係性って何だろうとも思っていました。制作というものを考えると終わりがなくて、その問題に向き合って作品を変えていくのはある意味当たり前だと思いますし、長い年月を費やして一つのテーマに立ち向かっていくというのはありだと思うんです。その一方で展覧会には完成した作品を出すという意味合いが強いと思います。それを否定するつもりはないんですけれど、では作家のもっと長い意味での人生だったり、活動だったりとの関係性を考えたときに、言い訳じゃないけれども展覧会自体も変容していくもの、変わっていくものというふうに捉えて会期中に変えていくとか、また違う展示があるときに作品を違う方法で見せることもありなのではないかと思うようになりました。今回、私の人生のこの局面、移動の渦中ではそう思うことでしか制作ができなかったという事情です。

石倉:ありがとうございます。長坂さんはこの大変な状況でも、香港との間を移動していたわけですね。この展覧会では、長坂さんの作品も更新していきますが、実は秋田県立博物館からお借りしている資料の展示替えがありますので、そういう意味では生きもののように変わっていく点もあります。空間の移動や時間の推移を感じながら、季節の変化と合わせて楽しんでいただきたいですね。では、迎さん、お願いします。

迎:私は作品を作るときにテーマカラーを決めています。でもカラーはむしろ、モチーフにしているものと全然違う、モチーフをあえて想起させないような色や素材を選ぶようにしています。今回は、モノトーンにしたことがないから、してみようかという軽いきっかけでした。ぬいぐるみというか、ソフト・スカルプチュアと言いますか、柔らかいものを使ってみたいなとも思っていました。

黄色と黒の物体が飛び交う迎英里子《アプローチ6.1》パフォーマンス

クッションみたいですけれど、黒くて、てかてかしていて、何ともいえない微妙なサイズで。あるんだけど、感触もなんとなく知っているんだけれど、そういうのってないなということで黒い造形物は生まれました。黄色は差し色なんですが、丸いものにしたのは、結局、下敷きにしているストーリーの中ではものはあまり脚光を浴びない役割なんです。移動し続けているだけで。人は所属させられたり、逃げたりという表現が使われたりしますが、ものはただ移動しているだけ。毛があると生きものを想起させたりするかも思い、つやつやした、すごく人工物に見えるような素材を選んでいます。というのと、素材感の違う布を重ねることで、質感がすごく出てくるというのもあって選びました。あと、黒い物体が人によってはミトコンドリアのように見えたり、馬ふんみたいだとか、人が入っているようだとか、イルカの死体みたいだと言われたり。いろいろな見え方ができるような、媒介になれるような形になるようにしています。

石倉:ありがとうございます迎さんの作品は、モノと人をフラットに同じように見ようとする視点と、異なった次元に置き直す視点が両方含まれていて、とても印象的でした。日本語のモノって、物質のthing を意味するだけでなく、身体性や人格、モノとしての「人物」を表すこともありますよね。そういう意味では、生きモノ、食べモノなど、日本語はモノ性の高い世界観を内在させていて、迎さんの作品の多義性にも連なってくる性質がありそうです。
では最後に、岩井さん、お願いします。

岩井:(映像を見ながら)これは当時のマーキュリー・モントレー1963年型。現在は世界で数台、日本にも1台か2台輸入されて残っているそうです。私は実物を見たことはありません。車が登場する映画のシーンをキャプチャしてこれを作ろうとしたのは、やはり当時、自分が映画という虚像を見て、それを自分自身があたかもリアルなものとして享受しようとしていた気持ちを具現化したかったから。それで、大学の助手さん2人と一緒に1カ月半ぐらいかけて制作しました。アメリカのマニアが当時のカタログをサイトにアップしていて、そこからホイールベースと高さだけは判明しました。さらに映画の場面から細部の寸法を割り出し、図面をひきました。

岩井:原形は発泡スチロールで成形し、表面は樹脂でコーティング。最後に着色しました。作っていくと、当時のデザイナーが考えていた意匠の意図がおぼろげながら見えてくるというのは、やはりありますね。特にこの車は、リアウインドーなど機能に重きを置くような側面もあったようです。

映画の話に戻りますが、既存作品を読み替えるとか、リメークをしていくというのはごく普通のことで、一般の方にはわかり難い感覚かもしれませんが、映画は引用の宝庫ですよね。全てのシーンが監督の中の頭に蓄積された過去の映画で構成されているようなもので。そのレファレンスとかリメークというのは、新たな価値を生み出す方法論として定着していると思います。少し話はズレましたが、車とか映画というものが繰り返し同じテーマでつくられる意味というのも、そこにあるのではないかなと思いました。

石倉:ありがとうございます。イメージの準拠点という問題、とても重要だと思います。実は菅江真澄による図絵は、そのあとのさまざまな観察者や民俗学者にとって非常に重要なレファレンスの参照先になっています。彼はナマハゲを最初に描いた記録者であり、最も古い時代に人形道祖神を描いた人でもあります。つまり旅人であるというだけでなく、最初の記録を作ったドキュメンタリスト(記録者)であり、移動して取材を続けた作家であり、イメージを作る創造者でもあったと思うんです。言ってみれば一人の総合的な人間だったというか、長い旅を通して、分割されない生を生きた人間だったと言えるかもしれません。真澄はまた、円空のような先人を慕って、その足跡を追った旅人という側面もあります。先人の知や表現に触れるために旅を続けることも、誰かの足跡を辿って新しい線を描くことも、その後に生きる人々にとっては、生の軌道の重なりを示すことを意味します。その意味では、この展覧会を見ていただくことも、そうした生の連なりに参加し、生の厚みを体験していただくことになるのかもしれません。世界的なパンデミックによって、旅することや移動することが制限されているいまだからこそ、そうした鑑賞体験をぜひ味わっていただけると嬉しいです。

本日はありがとうございました。

 

展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」
トークイベント①「越境と発見:菅江真澄と現代芸術との接点」

Information

展覧会「ARTS & ROUTES -あわいをたどる旅-」

展覧会は閉幕いたしました。
こちらでアーカイブをご覧いただけます。
https://www.artscenter-akita.jp/artsroutes/

■会期:2020年11月28日(土)〜2021年3月7日(日) 9:30~17:00
(年末休館=12月29日〜31日、メンテナンス休館=1月13日〜22日)
■会場:秋田県立近代美術館(秋田県横手市赤坂字富ケ沢62-46 秋田ふるさと村内)
■TEL:0182-33-8855
■観覧料:一般1,000円(800円)/高校生・大学生500円(400円)
※中学生以下無料
※( )内は20名以上の団体および前売の料金
※学生料金は学生証提示
※障害者手帳提示の方は半額(介添1名半額)
・主催|ARTS & ROUTES 展実行委員会(秋田県立近代美術館・AAB秋田朝日放送)・秋田公立美術大学
・出展作家・プロジェクト|岩井成昭・迎英里子・長坂有希・藤浩志・菅江真澄プロジェクト(石倉敏明・唐澤太輔)・秋田人形道祖神プロジェクト(小松和彦・宮原葉月)・AKIBI複合芸術プラクティス 旅する地域考
・企画監修|服部浩之
・企画運営|NPO法人アーツセンターあきた(岩根裕子・石山律・藤本悠里子・高橋ともみ)
・グラフィックデザイン|吉田勝信・梅木駿佑
・ウェブコーディング|北村洸
・設営統括|船山哲郎
・後援|横手市・横手市教育委員会・秋田魁新報社・河北新報社・朝日新聞秋田総局・毎日新聞秋田支局・読売新聞秋田支局・産経新聞秋田支局・日本経済新聞社秋田支局・横手経済新聞・CNA秋田ケーブルテレビ・エフエム秋田・横手かまくらFM・エフエムゆーとぴあ・FM はなび・秋田県朝日会・東日本旅客鉄道株式会社秋田支社

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